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名付けは愛しい者への祈り

Novel's by みえ様

「我々の子供を返すカニ。そうやって誑かして、大人になったらちぎって投げようったってそうはいかないカニよ。お前の親も同じことをしたカニ」

ある暗い夜のことだった。男が船の甲板に立ち、独特のリズムで低く口笛を吹くと、数分の後、海面に白い触手がぬらりと現れた。男は躊躇うことなく海に向かってざんぶと飛び込み、その触手に導かれ、波の向こうへ消えた。


「『次の満月の夜、皆が寝静まった時間に口笛を吹いて呼んでほしい』。これでいいのか?」

「ええ」

大洋のなか、小さな島の上で、人間の男と人魚の女は小さく声をかわしていた。この人魚は、口笛を吹けばどこからともなく現れて、おそらく住処の近くの島へと男を連れていく。いつもは男が都合の良い時に口笛を吹いて呼ぶのだが、今回は違っていた。

「お前が日時を指定するのは珍しいな」

「どうしても今日、あなたに会わせたい子がいたの」

「会わせたい子……?」

女は「少し待っていて」と残し、海の中へと沈んだ。言われたとおりしばらく待っていると、女はなにか小さい生き物を抱えて、ぬるりと海岸へ上がってきた。その小さい生き物は、急に環境が変化したからなのか、ふわと口を開けて言葉にならない声をあげた。


女と同じ白い髪と肌、そして金の瞳。愛らしい顔はさながら天使のよう。いまだおぼつかない手足。先が桃色で、水かきのようなものがある。それとは別に、腰のあたりから二本の腕が生えている。その腕は柔らかく、軟体生物のようだ。男は目を見開く。

「お、おい! もしかして!」

「そうよ! 私とあなたの子よ」


男は驚いて、その生き物をまじまじと見つめた。たしかに少し釣り上がった目は自分に似ているし、体も明らかに人間のものだ。幼児特有のぷくと膨れた頬にやさしく触れてみた。水に浸かっていたとはいえ、普通の人間よりも体温が低い。子はその指を掴み、「だれ?」とたどたどしく尋ねる。

「あなたのパパよ」

「ぱぱ」

「そうよ」

女に促され、男は恐る恐る子を抱いた。その子は子供らしからぬ大人しさで、安心しきって男に身を預ける。なんと純粋な生き物だろう。男は目眩がするような気持ちになった。

「今まであわせてあげられなくてごめんなさいね」

「いや、いいんだ、急なもんで、びっくりしているけど……人魚と人間の子供は、小さい頃は海から出られないんだろ? しかたないさ」

「そうなの。そしてお願いがあるの。この子はもうすぐに海では暮らせなくなる」

「え、」

女は長い触手で、子の頭を優しく撫でた。

「そういう生き物なの。だんだんと陸の方に適応していくのよ。もちろん、普通の人間よりは長く海で過ごせるのだけど……。だからね、今度はあなたにこの子を育ててほしいの」

「……この子、今、いくつなんだ?」

「3歳よ。でもとても賢いから、そんなに手はかからないと思うわ。食べ物も普通のものを食べられるけど、柔らかい方がいいわ」

「……名前は?」

「名前? ああ、そっか。人間は固有の名前をつける文化があるのよね。海には、特に人魚にはないの。私は単にイカ人魚と呼ばれているし、それで通じるから……」

男は少し考え込むそぶりを見せた。そして少し嬉しそうに、にやりと笑った。

「そうか。じゃあ、この子の名前はカラマリにしよう。どうだ?」

「構わないけど、ずいぶんあっさり決めるのね」

「ああ、だって、俺とお前に子供ができたらこの名前にしようとずっと決めてたんだ。俺たちの子供! カラマリ!」

 男は子を高く持ち上げてくるくると回った。

「いい名前ね、私は名前を評価するだけの文化を持ってないけど……でも、いい名前だわ。うん。カラマリ! あなたは今日からカラマリよ!」


女は高揚した気分で子の新しい名前を呼んだ。カラマリは高い場所が楽しいのか、きゃいきゃいと笑っている。カラマリ! その4文字は二人にとってかけがえなく、たまらなく愛おしいもののように思えた。名付けというのは不思議なもので、意味をなさない文字列が、祈りの意味を帯びてくる。この子が、カラマリが、健やかに育ちますように。

「ああ、愛しきあなた、私とあなたの娘をよろしくね。この子はとても賢い子だわ。星の動きも、波の気分も、あなたの知っていること全て教えてあげて。豊かな商船を襲ったら、絹やキャラコだけでなくて、読み物や書くものを一緒に奪ってきて。この子の好奇心は海よりも深いわ……大きくなれば、きっとあなたたちの役に立つわ」

女は男と娘を自分の体に抱きながら、溶けるような声でそう言った。男はやっとの思いで、「約束する」という一言を絞り出した。この女に運ばれている間、意識を保つのは酷く難しいのだ。そうして目を覚ましたときには、船の甲板で横たわっていた。

数年が経ち、カラマリは6歳になった。イカ人魚の言うとおり彼女は優秀で、与えた知識は全て吸い込み、その明晰な頭脳で効率よく金目のものを奪い取った。また、力も強かった。幼い少女であるにもかかわらず、船長である父よりもずっと強かった。

腰から生えた長い腕で邪魔者全てをなぎ倒すことができた。しかし争いを好まず、基本的には彼女の父が特別に与えた部屋で書物を読んだり、どこからともなく現れた、蟹のような生き物と遊んだりして過ごしていた。


ある日のことだ。彼女がいつもどおり、蟹のような生き物と遊んでいた時のことだった。

突き上げるように大きく船が揺れ、皆慌てて武装して外へ出る。カラマリも部屋を飛び出した。周囲を見渡すも、自分たちの船以外のものは見当たらない。この辺りは岩礁もないはずだ。何があったのかと不安が蔓延していく中、誰かが「おい! 海の中を見ろ!」と叫んだ。

海の中に無数の黒い影が蠢いている。それはカラマリの触手にしがみついている生き物が、大きくなったような姿形をしている。

「ここが例のヘンタイニンゲンの船カニ! ヘンタイニンゲンとその娘の人魚人、あと金目のものを奪っていくカニよ!」


「了解カニ!」

少し間の抜けた声が響くと、海から無数の影が飛び出し、甲板に降り立った。

「我々はカニ人。命が惜しければ大人しく、船長とその娘を引き渡すカニ」

「んだよカニ人って! こんなアホそうな見た目で命が惜しければとか言うの、ちゃんちゃらおかしいな!」

危機感の欠落した船員がそうやって豪快に笑うと、一匹のカニ人がその船員を突き飛ばし、海へ落とした。その衝撃で周囲の人間も倒れた。

「我々を見くびるんじゃないカニ。お前らニンゲンごとき一瞬で海の藻屑にできるカニよ」

船員たちがヒッと息を飲む。落ちた男を助けに行こうとする者はいない。ならば仕方ないと、カラマリは男が落ちた方に走り出し、躊躇いなく海へ飛び込んだ。あまりのことで息を止める余裕もなかったと思われる男は、もがくことさえせず水の中を揺蕩っている。それも、かなり遠くだ。カニ人という種族は、見た目にそぐわず相当力があるらしい。

この波の動きだと、すぐに遠くへ流れていってしまうだろう。カラマリは思いっきり触手を伸ばして助け出そうとした。しかし、無数のカニ人が彼女の体を掴んで動きを止めた。

「離せ!」

「仲間の命が惜しいカニ?」

「黙れ!」

カラマリは力強く触手を振り回し、周囲のカニ人を薙ぎ払った。しかし何度薙ぎ払っても薙ぎ払っても付き纏ってきて気持ちが悪い。そうこうしている間に男はどんどん沈んでいく。やっとの思いで追いついた。男を抱きしめて猛スピードで船へ戻る。早くしなければ命が危ない。

水面から出た瞬間、水に濡れた男はものすごく重くなった。べしょっと音を立てて甲板に降り立つ。「誰か! こいつの手当を……」、そこまで言って彼女は絶句した。船の仲間たちは皆、拘束されて転がっていたのだ。

船員たちは強い縄で縛られ、猿轡をつけられていた。身をよじり必死に縄を抜けようとしているが、カニ人は冷めた様子でそれを見つめている。

「無駄カニよ。ニンゲンがその縄を解くのは不可能カニ」

皆がカラマリをすがるような目で見つめていた。齢6歳の少女に対し大の男がそんな目を投げかけるのはおかしいが、彼女は規格外なのだ。今まで数あったピンチも、彼女が救ってきた。彼女がこの船の砦だった。今だって、死にかけた船員を救ってきた! そしてカラマリはいつだって、その期待の重圧になんなく耐えた。それほどまでに強かった──人間相手なら。

しかし、カラマリは今、本能的な恐怖を感じていた。彼女の動きを一瞬でも止める力を持つ生き物なんて、母親以外に知らなかったのだ。

海から救い上げてきた男が大きく咳き込み、水を吐き出した。長いこと船上で過ごしていたカラマリにはわかった。これならひとまずは安心だろうが、放っておけば凍死しかねない。体を拭いて毛布をかぶせてやらなければならなかった。それができないのであれば、あとは神に祈るしかない。

「そいつはおつむも弱いしどうせ下っ端のうんこカニ。しばらく動けないだろうから放っておくカニ」

リーダー格らしいカニ人は冷酷にそういうと、下っ端のカニ人に何やら指示をした。カラマリは腹が立ったが、動き出す前に、指示に従った複数のカニ人に押さえ込まれた。触手は陸だと水の中と比べ威力は半減する。その上全速力で泳いで疲れている彼女は、先ほどのようにカニ人を振り払うことができなかった。リーダー格のカニ人はさらに指示をする。それに従った下っ端が、船員の中でも一際上等な服を着た男を、ゴミのように投げ捨てた。

「父さん!」

「お前とお前の父親は重要参考人として連れて行くカニ」

「なぜ。なにが望みだ」

「我々カニ人はニンゲンを滅ぼして第二の人類となるカニ。それを邪魔しているのがお前の母親のような人魚族カニ。だからお前とお前の父親から、人魚ちゃんについての情報を集めるカニ」

「人間を滅ぼす? それはまたどうして」

「カニ神様のお告げカニ。我々はそうせねばならないカニ」

「けっ、神様、神様か。僕もさっき神様を信じることにしたんだ、奇遇だね。ところでそのカニ神様とやらは、わざと無理なことを言って、君たちを破滅させようとしているんじゃないのかな?」

カニ人はカラマリを強く踏みつけた。彼女は今までこんなに強い力を感じたことはなかった。カニ人はどうやら怒りっぽい生き物のようだ。

それを見送った後、隊長はこちらを振り返って言った。


「ふん、お前らはちょっと力が強いけど僕を殺すまでのことはできないんだろう。そんな奴らがどんなに凄んだって、怖くなんてないね。だから残念ながら僕の母についての情報は渡せないな。何か条件がなくっちゃ」

「お前に渡すものなんかひとつもないカニ。だが要求は他にもあるカニ」

「強欲な奴だな、悪魔かなにかか?」

「悪魔はお前カニ! はっきり言うカニ。カニ人がここにきたのは、お前が誑かしている子ガニ人たちを返してもらうためカニ」

鬼気迫るカニ人を見てか、その「子ガニ人」たちがおろおろしながらカラマリの方へ寄ってきた。いつも一緒に遊んでいた、愛らしい蟹のような生き物たちだ。彼らは子供がいないこの船において、唯一と言っていい彼女の遊び相手で、友人だった。

「誑かしている……?」

「そうカニ!」

「僕は迷い込んできたこの子たちと一緒に遊んでいただけで、誑かそうなんて思ってない」

子ガニ人たちはそうだそうだと言わんばかりにカラマリの体によじ登って、抗議して見せた。自分たちの仲間を巻き込むわけにはいかないのか、他のカニ人は大人しくこちらを見ているだけで、押さえつける以上に攻撃してくる気配はない。しかし彼女を踏みつける力は緩まない。よく懐いた子ガニ人をみて、むしろ強まったように思える。「ああ、こんなに懐いてしまったのカニか……」、カニ人は悲しげにそう呟くと、カラマリの顔を力強く蹴った。痛みに顔を歪める。


「我々の子供を返すカニ」


その声には、心の底からの憎悪が篭っていた。

「何被害者面してるカニか? 海賊ニンゲンが今まで襲ってきた船のニンゲンもこういう目にあったのカニよ。アホカニ?」

リーダー格のカニ人は、人類全てを見下すように声を吐く。下っ端のカニ人は船からせっせと金目のものを運び込み、海へ飛び込んでいく。自分たちの根城へ運ぶのだろう。

リーダー格のカニ人は続ける。

「お前は我々を、我々の子供をいつかちぎって投げる。そうに決まってるカニ。あの凶悪な人魚ちゃんの娘なのだから。お前に懐いた子ガニ人がお前にちぎって投げられる時、どんな思いをするか、想像できるカニか!?」

カラマリはその気迫にびくりとして、目を逸らした。目を逸らすぐらいしかできないのだ。あのあと結局カニ人を振り払えず、拘束されてしまった。

「さっき僕の母さんがそうしたって言ってたけど……それはどういうこと?」

そう問いかけると、カニ人は目を少し下げた。カニ人という生き物の目は、頭部と細い管で繋がっており、どうやらその目を下の方へグッと下げることが、人間が目を細めるような役目を果たしているようだった。

「知らないカニか? じゃあ話してやるカニ。感謝するカニよ(カニ人は心底嫌そうな顔をした。この短時間でだいぶ表情が分かるようになった)。

何だろうと思って手に取ると、中には一枚の紙片が入っている。


……カニ人はお前の母親に可愛がられていたカニ。昔のことカニ。

カニ人としての本能は告げていたカニ。彼女は危険だと。しかしカニ人はそれを信じなかったカニ。だってあの子は優しかったから……。あの子に懐けば懐くほど、忠告の声は小さく薄れていったカニ。

私がそれを見せると、隊長はやや興奮した口調で言った。

大人になってからあの子に会いにいったら、すごく嬉しそうな顔をしたんだカニ。やっぱり危険だなんて嘘だと、そう思って近づいたら、あの子はその笑顔を貼り付けたままカニ人の腕を引きちぎったカニ。おお、おお……(カニ人は少し大袈裟に震えて見せた)。信じていたのに。お前もきっと同じことをするカニ」

「僕の母さんがそんな残酷なこと……」

するわけがない、そう言いかけてから、はっと思い出した。幼い頃、海の中で暮らしていた頃の記憶だ。ちょうど今、カラマリに縋り付いているこの小さな生き物を、初めて見かけた時の記憶。母が、「かわいいでしょう、これはね、カニ人っていうのよ」。そうやって、幼い自分に囁きかける。「小さい頃はかわいいんだけど、大人は……口は悪いし鬱陶しいしアホだし身の程知らずだし……ちぎってやったほうが身のためね」。その時の母の顔はよく見えなかったが、きっとこのカニ人の記憶と同じ顔をしていたのだろう。記憶の中の母は、いつだって優しい笑顔だった。

カラマリは続きを言うのをやめ、自分の肩に乗る子ガニ人にそっと頬を寄せた。 「いや、母さんがお前をちぎって投げたのだとしても、僕はそんなことしない。約束する。だから、この子たちと遊んでもいいだろ? 僕の数少ない友達……」

「嘘カニ! カニ人は信じないカニ!」

その時、隊長の持つ小型通信機がにわかにブルブルと振動した。

カニ人はカラマリから子ガニ人を引き剥がし、自らの顔の目の前に持ってきた。そして叫んだ──「目を覚ますカニ! 人魚も、人魚人も、ニンゲンも、全部我々の敵カニ!」。


カラマリは横目でチラリと西の方角を見た。太陽はもう沈みかけ、あたりは徐々に暗くなっていく。少し早いが、きっと応えてくれるはずだ。

彼女はこのような状況下でも、突破口を考え続けていた。ほんの少しずつ触手を伸ばしてゆっくりと縄をゆるませていたし、カニ人を、その表情がわかるようになるほど見つめて隙を窺い続けていた。いまや触手を引っ込めさえすれば、十分に脱出可能だ。カニ人が子ガニ人を怒鳴りつけカラマリへの注意を逸らした、その一瞬。今しかないと思った。彼女はするりと縄から抜け、カニ人の少ない後方へ飛んだ。カニ人たちがはっと気がつくが、もう遅い。


彼女は独特のリズムで、低く口笛を吹いてみせた。

「……何をしてるカニ? 口笛?」

呆気にとられたカニ人たちはしばらく硬直していたが、逃げられては堪らないと、慌てて彼女を再度捕らえた。しかし彼女は笑っている。

「僕にも猿轡をつけておくべきだったね」

カニ人が襲来した時のように、船が大きく揺れた。船員たちは怯え、猿轡の奥で息を呑んだ。カニ人は警戒を強める。船長だけが彼女の意図に気づき、カラマリの方を見て大きく頷いた。よくやった。そう言っているのだとわかった。

水面から勢いよく飛び出したその生き物は、美しい女の顔に、滑らかな軟体生物の体、そして無数の触手を持っていた。船の上に海水が降りかかり、人間もカニ人も皆衝撃の方向を見つめる。一拍置いて状況を把握したカニ人が、喉の奥から搾り出したような声で叫んだ。


「……に、に、人魚! 人魚ちゃんカニ!」


カニ人は我先にと海へ飛び込んで逃げていき、イカ人魚の触手がそれを追う。カラマリはほっとするとともに、自分に身を寄せているカニ人の幼体を思い、少し心を痛めた。この子はどんな気持ちでいるのだろうか。

「この船を沈めていいのは私だけ。海賊と烏賊の関係に、蟹が入り込む余地はない」  イカ人魚は髪の毛が逆立つほどの怒りに身を震わせ、容赦なくカニ人をちぎり投げてしまう。船員たちは、自分たちでは手も足も出なかった敵を簡単に薙ぎ払う彼女に、ただただ見入っていた。その姿は、この海一帯の海賊たちに伝わる、一枚の絵で見たものと瓜二つだ。力強い触手で波を起こし、海賊船を沈め、笑みを浮かべている、イカに似た女の絵……。

多くのカニ人が逃げていく中、1匹の子ガニ人と、リーダー格のカニ人だけは船の上にとどまっていた。カラマリも母の姿に見入ってしまい、ぼうと突っ立っていた。それがよくなかった。

唯一残った大人のカニ人が、油断していたカラマリの背後に回り込み、腰を抱きしめる。

「イカ人魚ちゃん、いいカニ? それ以上仲間を手にかけるのであれば、お前の愛しい娘もただでは済まさないカニ。死なば諸共カニ」

カラマリは黙ってカニ人を振り払おうとするが、まだ幼い彼女にはこれ以上戦い続ける体力は残っていなかった。残った子ガニ人が、カラマリから少し離れて震えていた。

「いい加減にして。娘にも夫にもこんなひどいことをして……本当に許さない」

「自分に懐いていたカニ人はちぎって投げるくせに、そんな真っ当な心があるカニか? 面白いカニね。その上この愚図どもを殺す権利すら自分にしかないものだと言い張る、随分優しい人魚ちゃんカニ」

カニ人は一呼吸おいて続ける。

「カニ人はお前を絶対に許さないカニ。これはお前を信じ、懐いていたのにちぎって投げられ、時には殺された多くのカニ人と、その仲間たちの総意カニ。お前はこの世で一番嫌われている人魚カニ」

カニ人はそこまでいうと、カラマリを抱いたまま自らを海に投じた。


「カラマリ!」

イカ人魚は悲痛な声をあげてから、海の中へ潜っていった。海の中は彼女のフィールドだ。船の上に触手を伸ばすより、海の中で泳ぐ方が彼女は得意なのだ。よってこれはむしろ好都合とも言える。しかし、カラマリはどうか? カラマリは普通の人間よりは海の中が得意だが、今の彼女は肉体的にも精神的にも疲労しきっていた。海の水を無抵抗に飲み込み、みるみるうちに弱る。カニ人は全速力で彼女を深海へ引き摺り込もうとする。どうやら、たとえここで殺すことができなくても、溺れて後遺症の一つでも残れば良いと考えているようだった。

イカ人魚は触手を伸ばしてあっけなくカニ人を握り潰し、急いでカラマリを救い上げる。

潰されたカニ人は水流に乗ってばらばらになり、揺られ、海の藻屑となった。


一方船上では、カラマリに助けられた男が息を吹き返し、他の仲間の拘束を解いているところだった。神への祈りが届いたのか、はたまた偶然かは分からないが、海賊たちは大いに喜んだ。一匹だけ残った子ガニ人も一緒に縄を引きちぎっている。 「お前、あのカニの化け物の仲間じゃないのか?」

子ガニ人は言葉にならない声を上げる。少し怯えが含まれてはいるが、海賊たちに協力するつもりのようだった。最初に解放された船長が、優しく声をかける。 「いつも娘と遊んでくれてありがとう……妻がお前たちの仲間と色々あったようで、すまない」

子ガニ人は首をふるふると振った。


カラマリは無事に帰ってきた。「ああ、生きていてよかった!」「お前のおかげで助かった!」。カラマリは困ったように笑った。自分がいなければ、きっとこの船が目をつけられることもなかったのに。

イカ人魚と船長が愛を育んでいたことが知られ、形ばかりの船内審判が行われたものの、禁忌はあっさりと赦された。イカ人魚が夫と娘に免じて海を荒らさずにいることがわかったからだ。命より惜しい決まり事などない。

あの時の子ガニ人は船に住みついて、カラマリにより懐き、終始行動を共にした。カニ人は成長が早い種族のようで、すぐに大きくなり、言葉を発し、やがて成体になった。

「カラマリちゃん、何してるカニか?」

「ああ、カニ人」

甲板で寝転がっていたカラマリは、カニ人の声を聞くと上半身を上げて、おいでおいでと手招きをした。カニ人は素直に向かっていく。

「星を見てたんだ」

「お星様カニか」

「お星様なんて言い方、この船の上では誰もしないのに、どこで知った?」  カニ人はくつくつと笑う。この船のものは皆粗暴だから、たしかに、そんな可愛らしい言い方はしないのだ。

「カニ人は種族全体で少しずつ意識や記憶を共有しているカニ」

「そうなの? でもその割には、人魚のこととか、他のカニ人と比べて全然知らないようだけど」

「カニ人は小さい頃からカラマリちゃんと一緒にいたから、記憶があまり流れ込んでこないカニ。カニ人は裏切り者に厳しいカニ。裏切り者にはあまり一族の知識を与えてもらえないカニ」

「一人称のカニ人と種族としてのカニ人が紛らわしいなあ」

「話聞いてるカニか」

カラマリはカニ人の不満そうな顔がおかしかったようでひとしきり笑うと、「そうだ、名前をつけよう」と言い出した。

「名前カニ?」

「そう、カニ人カニ人ってわかりにくいし。僕も小さい頃は名前がなかったんだけど……父さんが3歳の誕生日につけてくれたんだ、こういう満月の日に」

カラマリは月を見上げて、父が何度も言い聞かせてくれたことを思い出した。「お前の3歳の誕生日に、俺は初めてお前のことを抱き上げたんだ。本当に嬉しかった。カラマリという名は、俺が足りない頭でずっと考えていた、お前への最初のプレゼントだ」。名前がプレゼントというのはピンとこなかったが、名前の有用性については、このカニ人と話すうちによくわかった。一人称が種族名だと、本当にわかりにくいのだ。

「自分に名前をつけるとか、考えたこともなかったカニ。いいかもしれないカニ」

「そうだろ? 何がいいかなぁ、お前の名前は……。名前…………。ああ、ポチとか?」。

「ペットみたいな名前をつけるのはやめるカニ! もう名前なんかいらないカニ!」

カラマリはまたも笑った。

「でも名前は必要なんだ」

カニ人は納得いかないという顔でカラマリを見つめた。

「だって、お前がカニ人の群れの中に紛れたら僕には見分けがつかなくなってしまうだろ? 呼ばれた時にお前だけ反応してくれるような、そういう名前があれば安心だ」

「カニ人は帰らないカニよ?」

「違う。前みたいに、カニ人の群れにこの船が襲われないとも限らないだろ。お前は小さかったから覚えてないかもしれないけど、その時唯一残ってくれた子ガニ人がお前だった」

「ぼんやり覚えてるカニ。ものすごく怖かったカニ」

カニ人は自分を抱きしめ、すこし体を引いた。カニ人が「怖かった」のは、他のカニ人か、はたまた自分の母親か、どちらなのだろうか。カラマリはふとそんなことを考えてしまい、振り払った。考えても仕方のないことだ。

「お前の親や一族が、仲間を奪われたと怒り狂って襲いかかって来ないとも限らない。あるいは、お前を裏切り者として殺そうとしにくるかも。そしたら僕はお前の仲間をちぎって投げてしまうだろう」

 カラマリがちぎって投げるジェスチャーをすると、本能に刻み込まれているのか、カニ人はぶるぶる震えた。

「その時に、お前を間違えてちぎってしまったら堪らない。僕は母さんとは違う……大人になった今のお前のことも大切にしたい」

「カラマリちゃん……」

カニ人は総じて感じやすい性格だ。このカニ人も、きらきらとした瞳でカラマリを見つめた。彼女はそれに応えるように、優しい笑顔を作る。

「だからお前をポチと呼ぼうと思う」

「絶対に嫌カニ!! 感動して損したカニ!!」

ぷいとそっぽを向くカニ人に、カラマリは「ポチ」と呼び掛けた。「やめるカニ! カニ人はカニ人カニ!」。カラマリはまだ幼い頭で考えた。別に毎日この名前で呼びたいとは思わない。でも、大きな声で「ポチ」と呼んだ時、こうやって反論してくれるといいなと思う。間違うことのないように、彼を失うことのないように……。


彼女はまた寝転がって、少し口笛を吹き、すぐにやめた。あんな口笛の吹き方なんて、忘れてしまいたかったのだ。

名付けは愛しい者への祈り

【1】 【2】 【3】

「我々の子供を返すカニ。そうやって誑かして、大人になったらちぎって投げようったってそうはいかないカニよ。お前の親も同じことをしたカニ」



 ある暗い夜のことだった。男が船の甲板に立ち、独特のリズムで低く口笛を吹くと、数分の後、海面に白い触手がぬらりと現れた。男は躊躇うことなく海に向かってざんぶと飛び込み、その触手に導かれ、波の向こうへ消えた。


「『次の満月の夜、皆が寝静まった時間に口笛を吹いて呼んでほしい』。これでいいのか?」

「ええ」

 大洋のなか、小さな島の上で、人間の男と人魚の女は小さく声をかわしていた。この人魚は、口笛を吹けばどこからともなく現れて、おそらく住処の近くの島へと男を連れていく。いつもは男が都合の良い時に口笛を吹いて呼ぶのだが、今回は違っていた。

「お前が日時を指定するのは珍しいな」

「どうしても今日、あなたに会わせたい子がいたの」

「会わせたい子……?」

 女は「少し待っていて」と残し、海の中へと沈んだ。言われたとおりしばらく待っていると、女はなにか小さい生き物を抱えて、ぬるりと海岸へ上がってきた。その小さい生き物は、急に環境が変化したからなのか、ふわと口を開けて言葉にならない声をあげた。

 女と同じ白い髪と肌、そして金の瞳。愛らしい顔はさながら天使のよう。いまだおぼつかない手足。先が桃色で、水かきのようなものがある。それとは別に、腰のあたりから二本の腕が生えている。その腕は柔らかく、軟体生物のようだ。男は目を見開く。

「お、おい! もしかして!」

「そうよ! 私とあなたの子よ」

 男は驚いて、その生き物をまじまじと見つめた。たしかに少し釣り上がった目は自分に似ているし、体も明らかに人間のものだ。幼児特有のぷくと膨れた頬にやさしく触れてみた。水に浸かっていたとはいえ、普通の人間よりも体温が低い。子はその指を掴み、「だれ?」とたどたどしく尋ねる。

「あなたのパパよ」

「ぱぱ」

「そうよ」

 女に促され、男は恐る恐る子を抱いた。その子は子供らしからぬ大人しさで、安心しきって男に身を預ける。なんと純粋な生き物だろう。男は目眩がするような気持ちになった。

「今まであわせてあげられなくてごめんなさいね」

「いや、いいんだ、急なもんで、びっくりしているけど……人魚と人間の子供は、小さい頃は海から出られないんだろ? しかたないさ」

「そうなの。そしてお願いがあるの。この子はもうすぐに海では暮らせなくなる」

「え、」

 女は長い触手で、子の頭を優しく撫でた。

「そういう生き物なの。だんだんと陸の方に適応していくのよ。もちろん、普通の人間よりは長く海で過ごせるのだけど……。だからね、今度はあなたにこの子を育ててほしいの」

「……この子、今、いくつなんだ?」

「3歳よ。でもとても賢いから、そんなに手はかからないと思うわ。食べ物も普通のものを食べられるけど、柔らかい方がいいわ」

「……名前は?」

「名前? ああ、そっか。人間は固有の名前をつける文化があるのよね。海には、特に人魚にはないの。私は単にイカ人魚と呼ばれているし、それで通じるから……」

 男は少し考え込むそぶりを見せた。そして少し嬉しそうに、にやりと笑った。

「そうか。じゃあ、この子の名前はカラマリにしよう。どうだ?」

「構わないけど、ずいぶんあっさり決めるのね」

「ああ、だって、俺とお前に子供ができたらこの名前にしようとずっと決めてたんだ。俺たちの子供! カラマリ!」

 男は子を高く持ち上げてくるくると回った。

「いい名前ね、私は名前を評価するだけの文化を持ってないけど……でも、いい名前だわ。うん。カラマリ! あなたは今日からカラマリよ!」

 女は高揚した気分で子の新しい名前を呼んだ。カラマリは高い場所が楽しいのか、きゃいきゃいと笑っている。カラマリ! その4文字は二人にとってかけがえなく、たまらなく愛おしいもののように思えた。名付けというのは不思議なもので、意味をなさない文字列が、祈りの意味を帯びてくる。この子が、カラマリが、健やかに育ちますように。


「ああ、愛しきあなた、私とあなたの娘をよろしくね。この子はとても賢い子だわ。星の動きも、波の気分も、あなたの知っていること全て教えてあげて。豊かな商船を襲ったら、絹やキャラコだけでなくて、読み物や書くものを一緒に奪ってきて。この子の好奇心は海よりも深いわ……大きくなれば、きっとあなたたちの役に立つわ」

 女は男と娘を自分の体に抱きながら、溶けるような声でそう言った。男はやっとの思いで、「約束する」という一言を絞り出した。この女に運ばれている間、意識を保つのは酷く難しいのだ。そうして目を覚ましたときには、船の甲板で横たわっていた。


 数年が経ち、カラマリは6歳になった。イカ人魚の言うとおり彼女は優秀で、与えた知識は全て吸い込み、その明晰な頭脳で効率よく金目のものを奪い取った。また、力も強かった。幼い少女であるにもかかわらず、船長である父よりもずっと強かった。腰から生えた長い腕で邪魔者全てをなぎ倒すことができた。しかし争いを好まず、基本的には彼女の父が特別に与えた部屋で書物を読んだり、どこからともなく現れた、蟹のような生き物と遊んだりして過ごしていた。


 ある日のことだ。彼女がいつもどおり、蟹のような生き物と遊んでいた時のことだった。

 突き上げるように大きく船が揺れ、皆慌てて武装して外へ出る。カラマリも部屋を飛び出した。周囲を見渡すも、自分たちの船以外のものは見当たらない。この辺りは岩礁もないはずだ。何があったのかと不安が蔓延していく中、誰かが「おい! 海の中を見ろ!」と叫んだ。

 

海の中に無数の黒い影が蠢いている。それはカラマリの触手にしがみついている生き物が、大きくなったような姿形をしている。

「ここが例のヘンタイニンゲンの船カニ! ヘンタイニンゲンとその娘の人魚人、あと金目のものを奪っていくカニよ!」

「了解カニ!」

 少し間の抜けた声が響くと、海から無数の影が飛び出し、甲板に降り立った。

「我々はカニ人。命が惜しければ大人しく、船長とその娘を引き渡すカニ」

「んだよカニ人って! こんなアホそうな見た目で命が惜しければとか言うの、ちゃんちゃらおかしいな!」

 危機感の欠落した船員がそうやって豪快に笑うと、一匹のカニ人がその船員を突き飛ばし、海へ落とした。その衝撃で周囲の人間も倒れた。

「我々を見くびるんじゃないカニ。お前らニンゲンごとき一瞬で海の藻屑にできるカニよ」

 船員たちがヒッと息を飲む。落ちた男を助けに行こうとする者はいない。ならば仕方ないと、カラマリは男が落ちた方に走り出し、躊躇いなく海へ飛び込んだ。あまりのことで息を止める余裕もなかったと思われる男は、もがくことさえせず水の中を揺蕩っている。それも、かなり遠くだ。カニ人という種族は、見た目にそぐわず相当力があるらしい。

 この波の動きだと、すぐに遠くへ流れていってしまうだろう。カラマリは思いっきり触手を伸ばして助け出そうとした。しかし、無数のカニ人が彼女の体を掴んで動きを止めた。

「離せ!」

「仲間の命が惜しいカニ?」

「黙れ!」

 カラマリは力強く触手を振り回し、周囲のカニ人を薙ぎ払った。しかし何度薙ぎ払っても薙ぎ払っても付き纏ってきて気持ちが悪い。そうこうしている間に男はどんどん沈んでいく。やっとの思いで追いついた。男を抱きしめて猛スピードで船へ戻る。早くしなければ命が危ない。

 水面から出た瞬間、水に濡れた男はものすごく重くなった。べしょっと音を立てて甲板に降り立つ。「誰か! こいつの手当を……」、そこまで言って彼女は絶句した。船の仲間たちは皆、拘束されて転がっていたのだ。

 船員たちは強い縄で縛られ、猿轡をつけられていた。身をよじり必死に縄を抜けようとしているが、カニ人は冷めた様子でそれを見つめている。

「無駄カニよ。ニンゲンがその縄を解くのは不可能カニ」

 皆がカラマリをすがるような目で見つめていた。齢6歳の少女に対し大の男がそんな目を投げかけるのはおかしいが、彼女は規格外なのだ。今まで数あったピンチも、彼女が救ってきた。彼女がこの船の砦だった。今だって、死にかけた船員を救ってきた! そしてカラマリはいつだって、その期待の重圧になんなく耐えた。それほどまでに強かった──人間相手なら。

 しかし、カラマリは今、本能的な恐怖を感じていた。彼女の動きを一瞬でも止める力を持つ生き物なんて、母親以外に知らなかったのだ。

 海から救い上げてきた男が大きく咳き込み、水を吐き出した。長いこと船上で過ごしていたカラマリにはわかった。これならひとまずは安心だろうが、放っておけば凍死しかねない。体を拭いて毛布をかぶせてやらなければならなかった。それができないのであれば、あとは神に祈るしかない。

「そいつはおつむも弱いしどうせ下っ端のうんこカニ。しばらく動けないだろうから放っておくカニ」

 リーダー格らしいカニ人は冷酷にそういうと、下っ端のカニ人に何やら指示をした。カラマリは腹が立ったが、動き出す前に、指示に従った複数のカニ人に押さえ込まれた。触手は陸だと水の中と比べ威力は半減する。その上全速力で泳いで疲れている彼女は、先ほどのようにカニ人を振り払うことができなかった。リーダー格のカニ人はさらに指示をする。それに従った下っ端が、船員の中でも一際上等な服を着た男を、ゴミのように投げ捨てた。

「父さん!」

「お前とお前の父親は重要参考人として連れて行くカニ」

「なぜ。なにが望みだ」

「我々カニ人はニンゲンを滅ぼして第二の人類となるカニ。それを邪魔しているのがお前の母親のような人魚族カニ。だからお前とお前の父親から、人魚ちゃんについての情報を集めるカニ」

「人間を滅ぼす? それはまたどうして」

「カニ神様のお告げカニ。我々はそうせねばならないカニ」

「けっ、神様、神様か。僕もさっき神様を信じることにしたんだ、奇遇だね。ところでそのカニ神様とやらは、わざと無理なことを言って、君たちを破滅させようとしているんじゃないのかな?」

 カニ人はカラマリを強く踏みつけた。彼女は今までこんなに強い力を感じたことはなかった。カニ人はどうやら怒りっぽい生き物のようだ。

「ふん、お前らはちょっと力が強いけど僕を殺すまでのことはできないんだろう。そんな奴らがどんなに凄んだって、怖くなんてないね。だから残念ながら僕の母についての情報は渡せないな。何か条件がなくっちゃ」

「お前に渡すものなんかひとつもないカニ。だが要求は他にもあるカニ」

「強欲な奴だな、悪魔かなにかか?」

「悪魔はお前カニ! はっきり言うカニ。カニ人がここにきたのは、お前が誑かしている子ガニ人たちを返してもらうためカニ」

 鬼気迫るカニ人を見てか、その「子ガニ人」たちがおろおろしながらカラマリの方へ寄ってきた。いつも一緒に遊んでいた、愛らしい蟹のような生き物たちだ。彼らは子供がいないこの船において、唯一と言っていい彼女の遊び相手で、友人だった。

「誑かしている……?」

「そうカニ!」

「僕は迷い込んできたこの子たちと一緒に遊んでいただけで、誑かそうなんて思ってない」

 子ガニ人たちはそうだそうだと言わんばかりにカラマリの体によじ登って、抗議して見せた。自分たちの仲間を巻き込むわけにはいかないのか、他のカニ人は大人しくこちらを見ているだけで、押さえつける以上に攻撃してくる気配はない。しかし彼女を踏みつける力は緩まない。よく懐いた子ガニ人をみて、むしろ強まったように思える。「ああ、こんなに懐いてしまったのカニか……」、カニ人は悲しげにそう呟くと、カラマリの顔を力強く蹴った。痛みに顔を歪める。

「我々の子供を返すカニ」

 その声には、心の底からの憎悪が篭っていた。

「何被害者面してるカニか? 海賊ニンゲンが今まで襲ってきた船のニンゲンもこういう目にあったのカニよ。アホカニ?」

 リーダー格のカニ人は、人類全てを見下すように声を吐く。下っ端のカニ人は船からせっせと金目のものを運び込み、海へ飛び込んでいく。自分たちの根城へ運ぶのだろう。

 リーダー格のカニ人は続ける。

「お前は我々を、我々の子供をいつかちぎって投げる。そうに決まってるカニ。あの凶悪な人魚ちゃんの娘なのだから。お前に懐いた子ガニ人がお前にちぎって投げられる時、どんな思いをするか、想像できるカニか!?」

 カラマリはその気迫にびくりとして、目を逸らした。目を逸らすぐらいしかできないのだ。あのあと結局カニ人を振り払えず、拘束されてしまった。

「さっき僕の母さんがそうしたって言ってたけど……それはどういうこと?」

 そう問いかけると、カニ人は目を少し下げた。カニ人という生き物の目は、頭部と細い管で繋がっており、どうやらその目を下の方へグッと下げることが、人間が目を細めるような役目を果たしているようだった。

「知らないカニか? じゃあ話してやるカニ。感謝するカニよ(カニ人は心底嫌そうな顔をした。この短時間でだいぶ表情が分かるようになった)。

 ……カニ人はお前の母親に可愛がられていたカニ。昔のことカニ。

 カニ人としての本能は告げていたカニ。彼女は危険だと。しかしカニ人はそれを信じなかったカニ。だってあの子は優しかったから……。あの子に懐けば懐くほど、忠告の声は小さく薄れていったカニ。

 大人になってからあの子に会いにいったら、すごく嬉しそうな顔をしたんだカニ。やっぱり危険だなんて嘘だと、そう思って近づいたら、あの子はその笑顔を貼り付けたままカニ人の腕を引きちぎったカニ。おお、おお……(カニ人は少し大袈裟に震えて見せた)。信じていたのに。お前もきっと同じことをするカニ」

「僕の母さんがそんな残酷なこと……」

 するわけがない、そう言いかけてから、はっと思い出した。幼い頃、海の中で暮らしていた頃の記憶だ。ちょうど今、カラマリに縋り付いているこの小さな生き物を、初めて見かけた時の記憶。母が、「かわいいでしょう、これはね、カニ人っていうのよ」。そうやって、幼い自分に囁きかける。「小さい頃はかわいいんだけど、大人は……口は悪いし鬱陶しいしアホだし身の程知らずだし……ちぎってやったほうが身のためね」。その時の母の顔はよく見えなかったが、きっとこのカニ人の記憶と同じ顔をしていたのだろう。記憶の中の母は、いつだって優しい笑顔だった。

 カラマリは続きを言うのをやめ、自分の肩に乗る子ガニ人にそっと頬を寄せた。

「いや、母さんがお前をちぎって投げたのだとしても、僕はそんなことしない。約束する。だから、この子たちと遊んでもいいだろ? 僕の数少ない友達……」

「嘘カニ! カニ人は信じないカニ!」

 カニ人はカラマリから子ガニ人を引き剥がし、自らの顔の目の前に持ってきた。そして叫んだ──「目を覚ますカニ! 人魚も、人魚人も、ニンゲンも、全部我々の敵カニ!」。

 

カラマリは横目でチラリと西の方角を見た。太陽はもう沈みかけ、あたりは徐々に暗くなっていく。少し早いが、きっと応えてくれるはずだ。

 彼女はこのような状況下でも、突破口を考え続けていた。ほんの少しずつ触手を伸ばしてゆっくりと縄をゆるませていたし、カニ人を、その表情がわかるようになるほど見つめて隙を窺い続けていた。いまや触手を引っ込めさえすれば、十分に脱出可能だ。カニ人が子ガニ人を怒鳴りつけカラマリへの注意を逸らした、その一瞬。今しかないと思った。彼女はするりと縄から抜け、カニ人の少ない後方へ飛んだ。カニ人たちがはっと気がつくが、もう遅い。

 彼女は独特のリズムで、低く口笛を吹いてみせた。


「……何をしてるカニ? 口笛?」

 呆気にとられたカニ人たちはしばらく硬直していたが、逃げられては堪らないと、慌てて彼女を再度捕らえた。しかし彼女は笑っている。 「僕にも猿轡をつけておくべきだったね」

 カニ人が襲来した時のように、船が大きく揺れた。船員たちは怯え、猿轡の奥で息を呑んだ。カニ人は警戒を強める。船長だけが彼女の意図に気づき、カラマリの方を見て大きく頷いた。よくやった。そう言っているのだとわかった。

水面から勢いよく飛び出したその生き物は、美しい女の顔に、滑らかな軟体生物の体、そして無数の触手を持っていた。船の上に海水が降りかかり、人間もカニ人も皆衝撃の方向を見つめる。一拍置いて状況を把握したカニ人が、喉の奥から搾り出したような声で叫んだ。

「……に、に、人魚! 人魚ちゃんカニ!」

 カニ人は我先にと海へ飛び込んで逃げていき、イカ人魚の触手がそれを追う。カラマリはほっとするとともに、自分に身を寄せているカニ人の幼体を思い、少し心を痛めた。この子はどんな気持ちでいるのだろうか。

「この船を沈めていいのは私だけ。海賊と烏賊の関係に、蟹が入り込む余地はない」

 イカ人魚は髪の毛が逆立つほどの怒りに身を震わせ、容赦なくカニ人をちぎり投げてしまう。船員たちは、自分たちでは手も足も出なかった敵を簡単に薙ぎ払う彼女に、ただただ見入っていた。その姿は、この海一帯の海賊たちに伝わる、一枚の絵で見たものと瓜二つだ。力強い触手で波を起こし、海賊船を沈め、笑みを浮かべている、イカに似た女の絵……。

 多くのカニ人が逃げていく中、1匹の子ガニ人と、リーダー格のカニ人だけは船の上にとどまっていた。カラマリも母の姿に見入ってしまい、ぼうと突っ立っていた。それがよくなかった。

 唯一残った大人のカニ人が、油断していたカラマリの背後に回り込み、腰を抱きしめる。

「イカ人魚ちゃん、いいカニ? それ以上仲間を手にかけるのであれば、お前の愛しい娘もただでは済まさないカニ。死なば諸共カニ」

 カラマリは黙ってカニ人を振り払おうとするが、まだ幼い彼女にはこれ以上戦い続ける体力は残っていなかった。残った子ガニ人が、カラマリから少し離れて震えていた。

「いい加減にして。娘にも夫にもこんなひどいことをして……本当に許さない」

「自分に懐いていたカニ人はちぎって投げるくせに、そんな真っ当な心があるカニか? 面白いカニね。その上この愚図どもを殺す権利すら自分にしかないものだと言い張る、随分優しい人魚ちゃんカニ」

 カニ人は一呼吸おいて続ける。

「カニ人はお前を絶対に許さないカニ。これはお前を信じ、懐いていたのにちぎって投げられ、時には殺された多くのカニ人と、その仲間たちの総意カニ。お前はこの世で一番嫌われている人魚カニ」

 カニ人はそこまでいうと、カラマリを抱いたまま自らを海に投じた。

「カラマリ!」

 イカ人魚は悲痛な声をあげてから、海の中へ潜っていった。海の中は彼女のフィールドだ。船の上に触手を伸ばすより、海の中で泳ぐ方が彼女は得意なのだ。よってこれはむしろ好都合とも言える。しかし、カラマリはどうか? カラマリは普通の人間よりは海の中が得意だが、今の彼女は肉体的にも精神的にも疲労しきっていた。海の水を無抵抗に飲み込み、みるみるうちに弱る。カニ人は全速力で彼女を深海へ引き摺り込もうとする。どうやら、たとえここで殺すことができなくても、溺れて後遺症の一つでも残れば良いと考えているようだった。

 イカ人魚は触手を伸ばしてあっけなくカニ人を握り潰し、急いでカラマリを救い上げる。

 潰されたカニ人は水流に乗ってばらばらになり、揺られ、海の藻屑となった。


 一方船上では、カラマリに助けられた男が息を吹き返し、他の仲間の拘束を解いているところだった。神への祈りが届いたのか、はたまた偶然かは分からないが、海賊たちは大いに喜んだ。一匹だけ残った子ガニ人も一緒に縄を引きちぎっている。

「お前、あのカニの化け物の仲間じゃないのか?」

 子ガニ人は言葉にならない声を上げる。少し怯えが含まれてはいるが、海賊たちに協力するつもりのようだった。最初に解放された船長が、優しく声をかける。

「いつも娘と遊んでくれてありがとう……妻がお前たちの仲間と色々あったようで、すまない」

 子ガニ人は首をふるふると振った。

カラマリは無事に帰ってきた。「ああ、生きていてよかった!」「お前のおかげで助かった!」。カラマリは困ったように笑った。自分がいなければ、きっとこの船が目をつけられることもなかったのに。

 イカ人魚と船長が愛を育んでいたことが知られ、形ばかりの船内審判が行われたものの、禁忌はあっさりと赦された。イカ人魚が夫と娘に免じて海を荒らさずにいることがわかったからだ。命より惜しい決まり事などない。

 あの時の子ガニ人は船に住みついて、カラマリにより懐き、終始行動を共にした。カニ人は成長が早い種族のようで、すぐに大きくなり、言葉を発し、やがて成体になった。


「カラマリちゃん、何してるカニか?」

「ああ、カニ人」

 甲板で寝転がっていたカラマリは、カニ人の声を聞くと上半身を上げて、おいでおいでと手招きをした。カニ人は素直に向かっていく。

「星を見てたんだ」

「お星様カニか」

「お星様なんて言い方、この船の上では誰もしないのに、どこで知った?」

 カニ人はくつくつと笑う。この船のものは皆粗暴だから、たしかに、そんな可愛らしい言い方はしないのだ。

「カニ人は種族全体で少しずつ意識や記憶を共有しているカニ」

「そうなの? でもその割には、人魚のこととか、他のカニ人と比べて全然知らないようだけど」

「カニ人は小さい頃からカラマリちゃんと一緒にいたから、記憶があまり流れ込んでこないカニ。カニ人は裏切り者に厳しいカニ。裏切り者にはあまり一族の知識を与えてもらえないカニ」

「一人称のカニ人と種族としてのカニ人が紛らわしいなあ」

「話聞いてるカニか」

 カラマリはカニ人の不満そうな顔がおかしかったようでひとしきり笑うと、「そうだ、名前をつけよう」と言い出した。

「名前カニ?」

「そう、カニ人カニ人ってわかりにくいし。僕も小さい頃は名前がなかったんだけど……父さんが3歳の誕生日につけてくれたんだ、こういう満月の日に」

 カラマリは月を見上げて、父が何度も言い聞かせてくれたことを思い出した。「お前の3歳の誕生日に、俺は初めてお前のことを抱き上げたんだ。本当に嬉しかった。カラマリという名は、俺が足りない頭でずっと考えていた、お前への最初のプレゼントだ」。名前がプレゼントというのはピンとこなかったが、名前の有用性については、このカニ人と話すうちによくわかった。一人称が種族名だと、本当にわかりにくいのだ。

「自分に名前をつけるとか、考えたこともなかったカニ。いいかもしれないカニ」

「そうだろ? 何がいいかなぁ、お前の名前は……。名前…………。ああ、ポチとか?」

「ペットみたいな名前をつけるのはやめるカニ! もう名前なんかいらないカニ!」

 カラマリはまたも笑った。

「でも名前は必要なんだ」

 カニ人は納得いかないという顔でカラマリを見つめた。

「だって、お前がカニ人の群れの中に紛れたら僕には見分けがつかなくなってしまうだろ? 呼ばれた時にお前だけ反応してくれるような、そういう名前があれば安心だ」

「カニ人は帰らないカニよ?」

「違う。前みたいに、カニ人の群れにこの船が襲われないとも限らないだろ。お前は小さかったから覚えてないかもしれないけど、その時唯一残ってくれた子ガニ人がお前だった」

「ぼんやり覚えてるカニ。ものすごく怖かったカニ」

 カニ人は自分を抱きしめ、すこし体を引いた。カニ人が「怖かった」のは、他のカニ人か、はたまた自分の母親か、どちらなのだろうか。カラマリはふとそんなことを考えてしまい、振り払った。考えても仕方のないことだ。

「お前の親や一族が、仲間を奪われたと怒り狂って襲いかかって来ないとも限らない。あるいは、お前を裏切り者として殺そうとしにくるかも。そしたら僕はお前の仲間をちぎって投げてしまうだろう」

 カラマリがちぎって投げるジェスチャーをすると、本能に刻み込まれているのか、カニ人はぶるぶる震えた。

「その時に、お前を間違えてちぎってしまったら堪らない。僕は母さんとは違う……大人になった今のお前のことも大切にしたい」

「カラマリちゃん……」

 カニ人は総じて感じやすい性格だ。このカニ人も、きらきらとした瞳でカラマリを見つめた。彼女はそれに応えるように、優しい笑顔を作る。

「だからお前をポチと呼ぼうと思う」

「絶対に嫌カニ!! 感動して損したカニ!!」

 ぷいとそっぽを向くカニ人に、カラマリは「ポチ」と呼び掛けた。「やめるカニ! カニ人はカニ人カニ!」。カラマリはまだ幼い頭で考えた。別に毎日この名前で呼びたいとは思わない。でも、大きな声で「ポチ」と呼んだ時、こうやって反論してくれるといいなと思う。間違うことのないように、彼を失うことのないように……。


 彼女はまた寝転がって、少し口笛を吹き、すぐにやめた。あんな口笛の吹き方なんて、忘れてしまいたかったのだ。

Novel's by みえ様

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