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恩仁村

Novel's by urazuMa

急いでいるにしても、もっとしっかり道を調べてから出発するべきであった。

土砂降りの雨の中、車を運転しつつ羽柴さんはそう思った。

季節は年の暮れ。時刻は午後十時三十分頃。

県境の山道でのことである。


羽柴さんはとある人物と面談するため、宿泊先のホテルに向かっている最中だった。

しかし慣れない道を中途半端な下調べしかせずに走った結果、完全に迷子になってしまった。

地図を見ながらかれこれ一時間はあたりを行ったり来たりしているが、雨で視界が悪いこともあり、一向に正しいルートに出る気配がない

しかも間の悪いことにスマホが圏外になってしまった。


このままうろうろしていても埒が明かないどころか、更に深みにはまってしまうかもしれない。

そう思った羽柴さんは、その夜は車中泊を決め込むことにした。

ちょうど目の前にはヘッドライトに照らされた小さな神社らしき建物が見える。

二つしかない駐車場の一つに車を停め、エンジンはかけたままで羽柴さんはシートを倒して仮眠の体勢に入った。

明日、雨が止んでから正しい道を探そう。

それに、山の中とはいってもどこかに人は住んでいるだろうから、誰かを見つけて尋ねてみるのも良いかもしれない。


それから三時間ほど経った頃、コン……コン、とガラスを叩く音で羽柴さんは目を覚ました。

音のした方を見ると、見知らぬ男が運転席の窓の外から羽柴さんのことを覗き込んでいた。

「大丈夫ですか?」


ガラス越しに男がそう言うのが聞こえた。

先ほどまでの豪雨は嘘のように止んでいる。

寝ぼけて頭がぼんやりしていた羽柴さんは、その時になってようやくハッと我に返った。

誰かが通りがかって自分の事を見つけてくれたのだ。


その人の名前は山城さんといった。

この辺りにある恩仁村(おんじんむら)という小さな村の住人で、出張から帰る途中に羽柴さんの車が停まっているのを見つけたのだという。

何度も感謝の言葉を述べると、気にしないで下さい、と山城さんは手を振って答えた。


「この辺りは似たような道が多いので、初めての人は迷いやすいんですよ。……ところで、今日はどちらに向かってらしたんです?」

「××市です。ホテルに前泊する予定だったんですが……」

「ああ、それなら分かります。よかったら案内しますよ」

「本当ですか?ありがとうございます!」


感激した羽柴さんだったが、しかし山城さんは次のように言葉を続けた。


「あ、でも、今日はやめておいたほうがいいですね」

「え、どうしてですか?」

「××市に行くルートは一つしかないんですが、そこ、つい最近土砂崩れがあったんですよ。それでこの豪雨でしょう?今日あそこを通るのは危ないですよ。たぶん行こうとしても警察に止められると思います」

「そんな……」


がっくりと肩を落とした羽柴さんを見て、山城さんはしばらく何か考え込むようにしていたが、やがてこう言った。


「もしよかったら、私の家に来ませんか?」

「え?」


ちょうど去年の今頃にも羽柴さんと同じような人がいたのだという。

その時は雪で車が動かなくなったらしいが、慣れない山道を調べもせずに走ろうとした所は羽柴さんと同じだ。

その人は山城さんとは別の村人に助けられ、その人の家で一晩過ごしてから翌朝村を発ったらしい。

提案そのものは非常にありがたかったのだが、羽柴さんは遠慮した。

山城さんにも家族がいるだろうし、それにこんな時間に見ず知らずの男がいきなり家にやってくるのは迷惑以外の何物でもないだろうと。

しかし当の本人は朗らかな表情をしていた。


「うちには妻と娘、それに私の母も同居していますが、皆気にしませんよ。なにせ狭い村ですからね、困ったときはお互い様という精神とでもいいますか、そういう気風があるんですよ」

「でも……よろしいんでしょうか、僕なんかが泊めてもらって?」

「構いませんよ。ここで会ったのも何かのご縁です。それじゃあ行きましょうか」

「おかえりなさい。その人が電話で言ってた羽柴さん?」


山城さんの車に先導されて恩仁村に辿り着いた羽柴さんは、彼の奥さんから暖かい歓迎を受けた。


「夜分遅くにすみません。羽柴アラタと申します。よろしくお願いします」

「マキエです。今日は大変な目に遭われてお疲れでしょう。お風呂を沸かしておきましたので、どうぞお入りになって、ゆっくりお休みになってください」

「ありがとうございます」

疲れた身体と心に沁みるような山城夫妻の優しさに、羽柴さんはちょっとだけ涙が出そうになった。

マキエさんに勧められた通りに風呂に入り、二階の空き部屋を借りてそこで泥のように眠った。


翌朝、羽柴さんが目を覚ますと、誰かがドアの隙間から自分のことを覗いているのに気が付いた。

それは小学校に入るか入らないかくらいの女の子で、羽柴さんは、ああ、この子が山城さんの娘さんだなとすぐに気付いた。


おはよう、と羽柴さんが声をかけると、娘さんははにかんだような笑顔で「おはよう」と返した。

「朝ご飯ができたよって。お母さんが呼んできてって」

「ありがとう、すぐに行くよ」

「おじちゃんは誰?」

「あ、ごめんね。僕は羽柴アラタ。昨日君のお父さんに助けてもらったんだ。君の名前はなんていうの?」

「センナ」

「センナちゃんか。よろしくね」

「うん」

一階に下りると、居間の食卓には山城さん、マキエさん、センナちゃんの他に、山城さんの母親のユキさんも座っていた。

羽柴さんが改めて一宿一飯のお礼をいうと、ユキさんは山城さんとよく似た仕草で「いいんですよ」と手を振った。


「困ったときはお互い様ですから」


食事中の話題はもっぱら羽柴さんのことに集中し、その中でマキエさんが羽柴さんの仕事について質問した。


「羽柴さん、お仕事は何をしてらっしゃるんですか?」

「しがない物書きです」

「物書き?小説家さんなんですか?」

「たまに雑誌に投稿した文章が載るくらいです。大したものじゃありません」

「それでもすごいですよ。どんなお話を書いてらっしゃるんです?」


「不思議な話とか、少し怖い話を」

「怪談とか?」

「ええ。最近は人魚をテーマに物語を書こうと思っていて、今回もその取材のための出張だったんです」

「……人魚」


ええ、と返事をしながら、羽柴さんは「あれ?」と思った。

その場の空気が少し変わったような気がしたのだ。

マキエさんは山城さんの方を見ている。その表情になぜかやや怯えのような影が見えた気がした。


「人魚の話ならうちにもありますよ。なあ、母さん」

「難堤さんね」


山城さんがそう言うと、ユキさんはこくりと頷いた。


その言葉に羽柴さんは驚いた。もう先ほどの微妙な空気のことは頭から飛んでしまっている。


「ナンテイさん……?この村にも人魚伝説があるんですか?」

「難しい堤、と書いて『難堤』です。そういう名前の神社が近くにあるんです。あ、というか、昨日羽柴さんが車を停めてたのがそうですよ」

「あ、あの神社がそうなんですね」

「そうそう。それに人魚の銅像もありますよ。後で行ってみますか?」

「銅像?」


まさかそんなものまであるとは思ってもみなかった。

俄然興味の湧いた羽柴さんがぜひ案内してくださいと頼むと、山城さんは快く了承してくれた。

すると、向かいの席で小さな手があがった。

「私も行く!」

「お、センナも来るか。それじゃあ三人で行きましょうか」

「行くー!」


羽柴さんに向かって笑顔を向けながら、センナちゃんは嬉しそうに叫んだ。


もう羽柴さんの存在に慣れたらしい。どうやら本来は人懐っこい子のようだ。

羽柴さんもにっこりと笑ってそれに応えた。

鬱蒼と茂る森の中を神社まで歩いていく。

きゃっきゃっと騒ぎながらセンナちゃんが先頭を行き、羽柴さんと山城さんがそれに続く。

センナちゃんは事あるごとに立ち止まっては木の実を拾ったり、ちょうどいい長さの枝を拾ったりして楽しそうに遊んでいる。

この子は見ているだけで幸せな気分になるな、と羽柴さんは思った。


「可愛いお子さんですね」

「ありがとうございます」


山城さんは少し気恥ずかしそうに、しかし幾分か誇らしげな表情でそう言った。


「この村には子供がとても少ないんですよ」

「そうなんですか?」

「ええ、最近の若い子は村を出て外で子供を作ってしまいますから。……センナには同年代の友達が一人もいなくて、大人しか遊び相手を知らないんです。昔はもっと子供がいたんですが……」

「そうだったんですか……」


同年代の遊び相手がいないというのは何ともかわいそうな話である。

この村の豊かな自然と、大人たちがセンナちゃんの主な遊び相手なのだ。


「そうなんです。村のみんなはそれを理解してくれているので、センナにはとても良くしてくれます」

「皆さんに愛されてるんですね」

「ありがたい話です。もしよかったら羽柴さんも遊んでやってください」

「もちろんですよ。自分なんかでよければ」


センナちゃんは地面にうずくまって、さっき拾った木の枝で砂の上に絵を描いている。

羽柴さんが横からひょいと覗き込むと、そこには人間とカニを合体させたような奇妙な生物のイラストが描かれていた。


「センナちゃん、それは何?」

「これはね、カニじん」

「カニジン?なにそれ?」

「カニじんはね、小さくてね、いっぱいいるの。センナと遊んでくれるんだよ。おじちゃんも遊ぶ?」

「たまに出てくるんですよ、そのカニ人間。センナの友達みたいで。なかなか面白いでしょう」

「ええ、興味深いですね」

「カニにんげんじゃないよ、パパ!カニじん、カニじんだよ!そう言ってたもん」

「ごめんごめん、カニ人だね。……ん?でも言ってたって、誰が?」

「カニじんが」

「え、カニ人が?ほんとに?」

「……パパ、信じてないでしょ」

どうやらセンナちゃんの中ではカニ人とやらは実在することになっているらしい。

頬をふくらませてぷりぷりと怒る娘にひたすら謝る父親の様子が可笑しくて、思わず羽柴さんの口元が緩んだ。

山城さんがあとでお菓子を買ってあげるという約束でセンナちゃんの機嫌はひとまず直った。


難堤神社に到着すると、たしかに山城さんの言った通り参道の途中に銅像が置いてあった。

しかしそれは一般的な「人魚」のイメージとはひどくかけ離れたものだった。

その身体は鯰のように長く丸みを帯びていて、小さな四つ足があり、ヒレのようなしっぽが生えている。その前端からは人間の女の上半身のようなものが生えていて、人魚というよりはまるで半人半馬のケンタウロスのようだと羽柴さんは思った。


「これがそうですか」

「ええ、変わってるでしょう?」

「非常に興味深いです。こんな形のものは初めて見ました」

「村に来た人は皆そういいますね。私もここ以外にこういう姿の人魚がいるというのは聞いたことがありません」

「中国の人魚にはこういう姿をしたものも伝わっているんですよ。四つ足で、鳴き声は小さい子供のようで、大きさは二メートルぐらいのやつが」

「へえ、そうなんですか。ということはうちのも中国からやって来たのかな?」

「正確な所は専門家に聞いてみないと分からないかもしれませんが、実はそうかもしれないですね」

「人魚にも色んな奴がいるんだなぁ」

山城さんは感心したように言った。

羽柴さんが銅像の細部までよく見ようとして身を屈めると、すぐ傍でセンナちゃんが「人魚ちゃん!」と叫んだ。

それを見た山城さんが吹き出しそうな様子で尋ねる。


「今度はなんだい?」

「人魚ちゃん、カニじんのてきなんだって」

「敵?それもカニ人に聞いたのかい?」

「そう。とってもこわいんだって。つかまったら食べられちゃうの」

「それはたしかに怖いな」


山城さんと羽柴さんは顔を見合わせて笑った。

センナちゃんも嬉しそうに、人魚ちゃん!人魚ちゃん!と叫んでいる。


それからしばらく神社の敷地内を散策し、日が暮れる前に三人は山城さんの家へ帰った。

「長くお邪魔してしまって申し訳ありません。明日にはお暇させていただこうと思います」


その日の夜、羽柴さんがそう言うと、山城家の人々は全員が名残惜しそうな顔をした。


「もう行かれるんですか。もっとゆっくりして下さっても構いませんのに」


奥さんのマキエさんがそう言うと、山城さんの母のユキさんもうんうんと頷いた。

しかし羽柴さんは首を横に振った。


「元々予定がありましたので……しかしこのお礼は必ずします。後日になってしまうとは思いますが、必ず」

「そんな、気にしなくていいんですよ。私たちはただやるべきことをやっただけですから」


山城さんの言葉を受けて、羽柴さんの胸に熱いものがこみ上げてくる。


「山城さん……本当にありがとうございます……なんとお礼を言ったらいいか……」

「いえいえ、羽柴さんはセンナにも良くしてくれましたし、もう私たちの家族みたいなものですよ。なあセンナ?」

「……おじちゃん、本当に行っちゃうの?」


センナちゃんは羽柴さんのズボンを掴みながら悲しそうな目つきでそう尋ねてきた。

思わず「行かないよ」と言いたくなる気持ちをぐっとこらえる。

「ごめんね、センナちゃん。僕は大事なお仕事があるから、どうしても行かなくちゃいけないんだ」

「……また来てくれる?」

「もちろん、またすぐに遊びに来るよ。だからセンナちゃんも待っててくれるかな?」


羽柴さんがそう言うと、センナちゃんの顔がぱっと明るくなった。


「うん、約束!」

「よし、じゃあ指切りしようか」


羽柴さんとセンナちゃんはお互いの右手の小指を絡め、しっかりと握りあった。

荷造りを済ませ、布団に入った後。

その日の羽柴さんはなかなか眠りに就くことができなかった。


気のせいだとは思うが、窓の外に何かがいるような気配がするのだ。

ガサゴソと何かが動き回るような物音がしたかと思うと、壁をコツ……コツと叩くような音もする。


雨の音ではない。

たしかに外はまた雨が降り出しているが、その音とは明らかに違う。

野生のイノシシでもうろついているのだろうか。

電気を消した部屋でとりあえず布団に寝転がりながら、羽柴さんはそんな事を考えた。


と、不意に今度は家の中から物音が聞こえてきた。

「ギシッ……ギシッ……。

誰かが階段を上って、羽柴さんのいる部屋に近づいてくる。

その人物はなぜか極力足音を立てないように、忍び足で慎重に移動しているように思えた。


心臓が停止しそうなほどの恐怖を感じているのに、逆にそれ故に足が凍り付いたように動かない。

……ははあ、なるほど。

ふとある考えに思い至り、羽柴さんは思わずニヤリとした。

この足音の主は十中八九センナちゃんだろう。


おそらく、帰る前に自分に最後の悪戯を仕掛けようと思ってこっそり部屋まで近づいてきたに違いない。

あの年頃の子供が考えそうなことである。

ここは彼女の思惑に乗るふりをして、タイミングを合わせて逆におどかし返してやろうと羽柴さんは考えた。


急いで目元まで布団をかぶり、センナちゃんが部屋に入ってくるのを待ち構える。

ギィッ……という軋んだ音を立てて扉が開いた時、羽柴さんはあやうく笑い声を漏らしそうになった。


しかし。


何かがおかしい。

部屋に入ってきた人物の影がやけに大きいのである。

これは子供の身長ではない。

ドアの近くにいるのは確実に大人の、成人した人間のシルエットである。


予想していなかった展開に羽柴さんは困惑した。

センナちゃんじゃないなら、じゃあ一体誰が?

誰が夜更けに足音を殺して自分のいる部屋に入ってくるのか?

山城さん?マキエさん?それともユキさんか?

しかし何のために?

やがて人影は羽柴さんの枕元までやって来た。

真っ暗闇で顔は見えないが、シュウ、シュウ、と落ち着きなく呼吸をしているのが聞こえる。

そして、その人物は両手で何かを握っているようだ。


その「何か」を人影が勢いよく振り上げた瞬間、稲光が室内を明るく照らした。

そこに立っていたのは、両手で大きな包丁を握りしめ、今まさにその先端を羽柴さんに振り下ろそうとしている山城ユキさんの姿だった。

その形相はまるで鬼のように醜く歪んでいる。


羽柴さんは思わず絶叫してユキさんの身体を蹴り飛ばした。

枯れ枝のような身体がその勢いで転倒する。

苦悶の声を上げる彼女を放置し、羽柴さんは誰かに助けを求めようと部屋を出て階段を駆け下りようとした。


しかしあまりにも家の中が暗すぎて、階段がどこにあるのか分からない。

手探りで電気のスイッチを探していると、羽柴さんの身体に誰かが勢いよくしがみついてきた。


とてつもない恐怖に、羽柴さんは軽いパニック状態に陥った。

反射的にしがみついてきた腕を引きはがそうとするが、相手の力が物凄く、逆に元いた部屋の方へと引っ張られそうになる。

手で触った感触は女性のものではない。

筋肉質で筋張ったこれは、まぎれもなく男性の身体だ。

「うわっ……うわあっ!」


バランスを崩した羽柴さんは、自らにしがみついた人間と一緒に勢いよく階段を転がり落ちた。

全身を襲う鈍い痛みにうめく。

そして、自分の身体の下敷きになって伸びているその男の顔を見て、羽柴さんは全身からサーっと血の気が引くのを感じた。

そこにいたのは山城さんだった。

「え……?なんで……?何が……え……?」


自分の身に何が起こっているのか全くわからず、しばらく山城さんを見下ろしたまま呆然としていた羽柴さんだったが、玄関の向こうに複数の明かりがあるのを見て俄かに正気に戻った。

家の前にはかなりの人数がいるようで、ざわざわと何事か話し合っているような声も聞こえる。


家の前に誰かいる。よかった。あの人たちに助けを求めよう。

これは何かの間違いに違いない。


羽柴さんは気が動転するあまり、冷静な判断能力を失っていたと思われる。

こんな夜遅くになぜ山城家の前に人だかりができているのか。

その事に思い至ることができなかったのだ。


「誰か!誰か、助けてください!襲われて……」


大声で助けを呼びながら玄関までたどり着いた時、先ほどまでざわついていた声がぴたっと止んだ。

「……おい、おかしいぞ」

「まだ動いてるじゃないか、どうなってる?」

違う。

羽柴さんは直感した。


これは違う。

この人たちは自分を助けてくれない。

逆だ。

彼らは自分のことを殺そうとしている。

だから家の前でその行く末を見守っていたのだ。


「山城さんがしくじったぞ!入れ!行け!」

「……くそっ!」


羽柴さんは着のみ着のままで家の裏口から外へと逃げ出した。

靴を履く余裕はなかったので、裸足のままでアスファルトの上を駆けていく。

背後からは大勢の人間の怒号と足音が聞こえてきて、彼らの持っている懐中電灯の明かりが、村の隅々まで照らして逃げ出した羽柴さんを見つけようとしていた。


「いたか!?」

「いや、こっちにはいない」

「村の出入り口はすべて固めろ!どこかで野垂れ死ぬ前に見つけるんだ!」

「わかった。くそっ、山城の奴がしくじらなければ、こんな事には……」

「言うな。とにかく見つけ出すんだ!そうしないとあの子が……」

ざあざあと降りつける雨をまともに浴び、あっという間に全身の体温が奪われていく。

裸足で走っているので足の裏はすでに血まみれだ。

また道は真っ暗で何も見えないので、途中で何度も地面に転んだ。

一度などはそれで歯が一本折れてしまい、激痛とともに口の中が血の味でいっぱいになった。

しかしそれでもうめき声を上げることすらできなかった。

声を上げれば、追ってきている村人たちにすぐに見つかってしまう。


「ハァ……ハァ……」


土地勘のない村の中をあてどなく走り続け、とにかく誰にも見つからないように息を殺しながら逃げていたら、いつの間にか羽柴さんは深い森の中に彷徨いこんでいた。

木の幹にぶつかり、出っ張った根に足を取られ、泥にまみれる。

尖った岩で肌を切り、雨で体温を奪われながらも羽柴さんは必死に走っていた。


……どうして自分がこんな目に。

何度も何度もそのことを考えた。

しかし、まるで理由が分からなかった。


あんなに優しかった山城家の皆が、どうして自分を殺そうとしたのか。

会ったことも話したこともない恩仁村の人々が、なぜ自分を追いかけてきているのか。

どれだけ考えても結論は出なかった。

今はただ、一刻も早くこの村を出なければと、その思いだけで羽柴さんは闇の中を進み続けていた。

やがて、羽柴さんは少し開けた場所に出た。

無論、彼にはほとんど何も見えていないが、実はここは村境のすぐ近くである。

必死の思いで逃げ続けた結果、羽柴さんは偶然にも誰の目にも触れることなく、村の境界までたどり着いていたのである。

実はそこにたどり着けるかどうかが非常に重要な意味を持っているのだが、この時の羽柴さんにはそんなことは知る由もなかった。


痛む足を引きずりながら、ひたすらに歩き続ける羽柴さん。

突然、その背中が何か硬いもので殴りつけられた。

「がっ……!」


苦痛のうめきをあげて地面に倒れ込む。

その後ろに立っていたのは、階段の下で気絶していたはずの山城さんだった。


「頼むよ、羽柴さん」


頭には工事現場で使うようなヘッドライト付きのヘルメットをかぶり、手には先ほど羽柴さんを殴ったばかりの金属バットを持っている。

それを両手で大上段に振り上げながら、山城さんは呟くように言った。

「今年はあの子が選ばれたんだ。……センナの、娘のためなら俺はなんだってやる。

あの子を連れては行かせない。そんなこと、たとえ神様にだってさせるもんか」


羽柴さんはまだ地面にうずくまっている。

その姿を見下ろしながら、山城さんは両手に力を込めてバットの柄を強く握りしめた。

殺してはいけない。あくまで死ぬ寸前まで痛めつけるだけだ。

殺すのは自分ではない。

殺すのは「神様」がやってくれるのだから。


神様は年に一度の生贄を村人の中から選ぶ

しかし、年が明けるまでに訪れた旅人を代わりの供物にすれば、村人から死者は出なくて済むのだ。

それがこの村のルール。この村の掟。


これまでもずっとそうやってきたのだ。

だからこそ村人同士の結束は固い。

自分たちのために、見知らぬ誰かを犠牲にし続けてきたのだから。

「だから本当に申し訳ない、羽柴さん。どうか娘のために死んでくれ」


渾身の力を込めてもう一発背中を殴りつけようとしたその時、うずくまっていた羽柴さんが急に後ろを振り返った。

そして、手に握りこんでいた大きな石を、山城さんの顔面めがけて力いっぱい投げつけた。


「ぐあっ……!」


投石はあやまたず顔面に命中した。

ガキッという嫌な音がして、山城さんの鼻の骨が折れる。

すかさず羽柴さんは全身でタックルをかけ、山城さんを地面に引きずり倒した。

そのままくるりと反転して逃げようとした羽柴さんだったが、いくらも行かないうちに後ろから金属バットを投げつけられ、それがちょうど走っていた足の間に絡まった。


「……っ!」


足の痛みで起き上がれない羽柴さんに近づき、先ほど投げたバットを拾い上げる。

羽柴さんはなんとか距離を離そうと後ずさりするが、山城さんはそんな羽柴さんを勝ち誇ったような顔で見下ろし、今度こそ確実にバットを振り下ろそうとした。


と、その時。


「……惜しいわ。逃げ切るなんて」


いつの間にか、二人の間に巨大な影が割って入っていた。

山城さんのヘッドライトに照らされたそれは、どう見ても人間の姿をしていなかった。

その身体は鯰のように長く丸みを帯びていて、小さな四つ足があり、ヒレのようなしっぽが生えている。その前端からは人間の女の上半身のようなものが生えていて、人魚というよりはまるで半人半馬のケンタウロスのようだと羽柴さんは思った。 そう、これはまるで―――。



「……人魚?」

そう、それはあの難堤神社で見た人魚の銅像にそっくりの姿だった。

自分の目が信じられず、羽柴さんはあんぐりと口を開けて目の前の不思議な生き物を見ていた。

山城さんもバットを振りかぶった姿勢のまま完全に硬直している。

しかし、彼の驚きの原因は、羽柴さんとはまた別の所にあるようだった。


「……逃げ切った?」

「そうよ。その人はもう村の外にいるもの。境界の外に出た人間を食べるわけにはいかないわ」


そういって、銅像そっくりな生物は羽柴さんの方を指差した。

山城さんがヘッドライトでその方向を照らすと、そこには奇妙な形に彫刻された大きな石のようなものが落ちている。

どうやらこれがこの村の境界を示すものらしい。


「そんな……」

「なかなか面白かったわ。見所のある人間ね。できれば彼氏にしたいところだけど、今は他の仕事があるのよね」


がっくりと項垂れる山城さんを無視し、人魚らしき生物は羽柴さんに向かってそう言うと、どこか別の場所へと歩き出そうとした。

それを見て山城さんが慌てて顔を上げる。

「……待ってくれ。どこへ行く気だ?」


その言葉に、人魚が振り返って言う。

その声は羽柴さんに向けられたものとは打って変わって、非常に冷たいものだ。

「この人間は逃げ切った。だから彼は殺さない。掟通りにお前の娘を食べるわ」

「そんな……駄目だ、絶対に駄目だ。そんなことはさせない。やめてくれ」

「……させない?」


その瞬間、空気が変わった。

目の前の生き物の全身から、異様な怒気が発散されているのが羽柴さんにもわかった。

その気迫に圧され、山城さんは心底怯えたような表情をした。

全身が恐怖にぶるぶると震えている。

そんな山城さんを見て、人魚らしき生き物はフンと鼻を鳴らした。

そのままスタスタと歩き出そうとする背中を見て、山城さんが必死の形相で叫んだ。


「やめろ、止まれ……止まってくれ!止まれと言っているのがわからないのか!?」


その声も無視して歩いていく異様な生き物。

ついに山城さんは叫び声をあげながらその生き物に殴りかかった。

金属バットが謎の生き物の身体を叩く直前、目にも止まらぬ速さで伸びてきた手がバットをがっしりと掴み取った。

そのまま謎の生き物は強靭な握力でバットをぐしゃりと握りつぶすと、呆気に取られている山城さんの頭を鷲掴みにし、その身体ごと近くの木に向かって勢いよく投げつけた。

びしゃっ、という音がして、山城さんの身体が半分に千切れ飛んだ。

目の前で突然起きた惨劇に呆然とする羽柴さんを置き去りにして、人魚はそのまま何事もなかったかのように立ち去ろうとしていた。


「ま、待ってください」


羽柴さんは思わずそう声をかけていた。

ん?といって人魚が立ち止まり、後ろを振り返る。


「何?どうしたの?」

「あなたは、あなたは本当に人魚なんですよね?」

「そうよ。大山椒魚の人魚だから、皆にはオオサンショウウオ人魚って呼ばれてるわね」

「……あなたは、これからどうするつもりなんですか?」

「さっき言った通りよ。あなたが逃げ切ったから、掟に従ってさっき死んだあいつの娘を食べるの」

「センナちゃんを……?」


羽柴さんは思わず身を震わせた。

あの子を……食べるだって?


「そう。山城センナをね。それがこの村の掟なのよ。色々と村の面倒を見てあげる代わりに、一年の最後に生贄を差し出すっていうね」

「そんな……なんとか殺さずにすむ方法はないのですか?」


羽柴さんがそう言うと、オオサンショウウオ人魚は眉間に皺を寄せて答えた。


「ないわね。そういうルールだもの。……というか、どうして貴方がそんなことを言うの?この村の人間は総がかりで貴方を生贄の代わりにしようとしていたのよ?恨みに思いこそすれ、助けようとする義理なんてないんじゃない?」


なるほど、自分はセンナちゃんの身代わりとして選ばれていたのか。

それなら確かに自分が彼女を助ける義理も必要もないように思える。

それは確かに人魚の言う通りなのだが、しかし羽柴さんには別の思いがあった。


「でも、あの子は……センナちゃんは何も知らないでしょう?」

「……まあ、それは確かにそうね。けど、あの子もいずれこの村の風習を知るようになるわ。そして、親や先祖と同じように、村人から犠牲を出す代わりに、見知らぬ旅人を差し出すようになる。この村はそうやって今まで滅びずにやって来たのよ」


罪悪感を共有することで村人同士の結束を強めていたのか。

恐ろしいシステムだ、と思いつつ、しかしそれでも羽柴さんは首を縦に振らなかった。

「それでも、それでも僕はあの子を死なせたくありません」

「……見かけによらず強情ね。なぜそこまで言うの?」

「理屈じゃありません。ただあの子に死んでほしくないからです」

「……」


オオサンショウウオ人魚は、しばらく考え込むようにじっと黙り込んでいた。

羽柴さんの意識が朦朧としてくる。

さっきまでは命のやり取りで極限状態にあったから意識が覚醒していたが、寝間着かつ裸足のまま冬の山の中を一時間以上も歩き続け、何度も転倒したり殴られたりした羽柴さんの心身は、とっくのとうに限界に達していた。

そんな様子を見て、オオサンショウウオ人魚はふっと笑う。


「……今にも倒れそうだっていうのに、心配してるのは自分を殺そうとした男の娘のことばかり。貴方、なかなかおかしいわね。おかしいけど……そういうのは正直嫌いじゃないわ」

「え……?」

「貴方の願いを叶えてあげると言ってるのよ。ほら、私って一応この村では神様扱いだし?追手から逃げ切った勇敢な人間へのご褒美として、あの娘の命だけは見逃してあげるわ」

「……本当ですか?」

「ええ、本当よ。約束は必ず守るわ」

「ありがとうございます……」


オオサンショウウオ人魚の言葉に、羽柴さんは心から安堵の溜息をついた。

しかし、彼女は次のように言葉を続けた。

「でも、一つだけ条件があるわ」

「条件?」


対価を求めるということだろうか?

しかし、今にも死にそうな自分にできる事があるとは思えない。

死んだ後の自分の死体を食べたいとか言い出すのだろうか?

しかし、オオサンショウウオ人魚の出した条件は、羽柴さんにとって完全に予想の斜め上を行くものだった。


「貴方、私と夫婦になりなさい」

「…………は?」


言われた意味が全く分からず、羽柴さんは思わず聞き返した。

その様子を見て、オオサンショウウオ人魚は不満そうな顔をした。


「聞こえなかったの?私と夫婦になりなさいって言ったのよ。それがあの娘を助ける条件」

「はあ……?」

「何その反応?嫌なの?」

「いえ、そういう訳じゃないんですが……」


真顔でそう聞かれると反応に困ってしまう。

「貴方は村の連中からたった一人で逃げ切った。運が強いし、とても生命力がある。私の姿を見ても何とも思ってないみたいだし、貴方とならきっと強い子が生まれそうな気がするの」

「子って……」


話が早すぎる、と羽柴さんは思った。

もう目を開けていられない。意識は今にも途切れてしまいそうだった。


「あ、そろそろヤバそうね。でも安心して、貴方は死なせないわ。巣に連れて行ってあげる。私の夫になる人間にこんなところで死なれちゃ困るからね……」


薄れゆく意識の中で、羽柴さんはオオサンショウウオ人魚の腕に優しく抱きかかえられたような気がした。

その後、○○県恩仁村付近の山にて、史上稀に見る規模の大土石流が発生した。

大量の土砂や水、流木は村の全家屋を飲み込み、必死の捜索にも関わらず、まだ一人の遺体も発見されていないという。


地元警察は、唯一生き残った六歳の少女を村内の神社境内で保護した。


この神社は奇跡的に土石流の被害を免れ、少女は拝殿内に意識を失った状態で横たわっていたのだという。


少女はすぐに病院に運ばれ、現在医師の治療を受けているが、幸いなことに命に別状はないとのことだ。

警察は少女の意識が戻り次第、詳しい事情を訊ねる予定だという。

羽柴さんはオオサンショウウオ人魚の夫となり、すでに彼女のお腹には第一子がいる。


「子作りしたらたくさん栄養を摂らなきゃね」


その栄養とは何を指しているのか、どこから摂るのか、土石流の日はどこに行っていたのか、またなぜ村人の死体が一つも見つかっていないのか……様々な疑問が脳裏を渦巻いていたが、羽柴さんはあえて何も聞かなかった。


なぜなら、人魚は彼との約束をちゃんと守ってくれたからだ。

羽柴さんにとってはそれだけで十分だった。

恩仁村は無くなり、センナちゃんとの指切りの約束を果たすことはできそうにないが、彼女の命を守ることはできたのだ。

それだけで、今の彼にとっては十分だった。

恩仁村

【1】 【2】 【3】

急いでいるにしても、もっとしっかり道を調べてから出発するべきであった。

土砂降りの雨の中、車を運転しつつ羽柴さんはそう思った。

季節は年の暮れ。時刻は午後十時三十分頃。

県境の山道でのことである。


羽柴さんはとある人物と面談するため、宿泊先のホテルに向かっている最中だった。

しかし慣れない道を中途半端な下調べしかせずに走った結果、完全に迷子になってしまった。

地図を見ながらかれこれ一時間はあたりを行ったり来たりしているが、雨で視界が悪いこともあり、一向に正しいルートに出る気配がない

しかも間の悪いことにスマホが圏外になってしまった。


このままうろうろしていても埒が明かないどころか、更に深みにはまってしまうかもしれない。

そう思った羽柴さんは、その夜は車中泊を決め込むことにした。

ちょうど目の前にはヘッドライトに照らされた小さな神社らしき建物が見える。

二つしかない駐車場の一つに車を停め、エンジンはかけたままで羽柴さんはシートを倒して仮眠の体勢に入った。

明日、雨が止んでから正しい道を探そう。

それに、山の中とはいってもどこかに人は住んでいるだろうから、誰かを見つけて尋ねてみるのも良いかもしれない。


それから三時間ほど経った頃、コン……コン、とガラスを叩く音で羽柴さんは目を覚ました。

音のした方を見ると、見知らぬ男が運転席の窓の外から羽柴さんのことを覗き込んでいた。

「大丈夫ですか?」

ガラス越しに男がそう言うのが聞こえた。

先ほどまでの豪雨は嘘のように止んでいる。

寝ぼけて頭がぼんやりしていた羽柴さんは、その時になってようやくハッと我に返った。

誰かが通りがかって自分の事を見つけてくれたのだ。


その人の名前は山城さんといった。

この辺りにある恩仁村(おんじんむら)という小さな村の住人で、出張から帰る途中に羽柴さんの車が停まっているのを見つけたのだという。

何度も感謝の言葉を述べると、気にしないで下さい、と山城さんは手を振って答えた。


「この辺りは似たような道が多いので、初めての人は迷いやすいんですよ。……ところで、今日はどちらに向かってらしたんです?」

「××市です。ホテルに前泊する予定だったんですが……」

「ああ、それなら分かります。よかったら案内しますよ」

「本当ですか?ありがとうございます!」


感激した羽柴さんだったが、しかし山城さんは次のように言葉を続けた。


「あ、でも、今日はやめておいたほうがいいですね」

「え、どうしてですか?」

「××市に行くルートは一つしかないんですが、そこ、つい最近土砂崩れがあったんですよ。それでこの豪雨でしょう?今日あそこを通るのは危ないですよ。たぶん行こうとしても警察に止められると思います」

「そんな……」


がっくりと肩を落とした羽柴さんを見て、山城さんはしばらく何か考え込むようにしていたが、やがてこう言った。


「もしよかったら、私の家に来ませんか?」

「え?」


ちょうど去年の今頃にも羽柴さんと同じような人がいたのだという。

その時は雪で車が動かなくなったらしいが、慣れない山道を調べもせずに走ろうとした所は羽柴さんと同じだ。

その人は山城さんとは別の村人に助けられ、その人の家で一晩過ごしてから翌朝村を発ったらしい。

提案そのものは非常にありがたかったのだが、羽柴さんは遠慮した。

山城さんにも家族がいるだろうし、それにこんな時間に見ず知らずの男がいきなり家にやってくるのは迷惑以外の何物でもないだろうと。

しかし当の本人は朗らかな表情をしていた。


「うちには妻と娘、それに私の母も同居していますが、皆気にしませんよ。なにせ狭い村ですからね、困ったときはお互い様という精神とでもいいますか、そういう気風があるんですよ」

「でも……よろしいんでしょうか、僕なんかが泊めてもらって?」

「構いませんよ。ここで会ったのも何かのご縁です。それじゃあ行きましょうか」

「おかえりなさい。その人が電話で言ってた羽柴さん?」


山城さんの車に先導されて恩仁村に辿り着いた羽柴さんは、彼の奥さんから暖かい歓迎を受けた。


「夜分遅くにすみません。羽柴アラタと申します。よろしくお願いします」

「マキエです。今日は大変な目に遭われてお疲れでしょう。お風呂を沸かしておきましたので、どうぞお入りになって、ゆっくりお休みになってください」

「ありがとうございます」

疲れた身体と心に沁みるような山城夫妻の優しさに、羽柴さんはちょっとだけ涙が出そうになった。

マキエさんに勧められた通りに風呂に入り、二階の空き部屋を借りてそこで泥のように眠った。


翌朝、羽柴さんが目を覚ますと、誰かがドアの隙間から自分のことを覗いているのに気が付いた。

それは小学校に入るか入らないかくらいの女の子で、羽柴さんは、ああ、この子が山城さんの娘さんだなとすぐに気付いた。


おはよう、と羽柴さんが声をかけると、娘さんははにかんだような笑顔で「おはよう」と返した。

「朝ご飯ができたよって。お母さんが呼んできてって」

「ありがとう、すぐに行くよ」

「おじちゃんは誰?」

「あ、ごめんね。僕は羽柴アラタ。昨日君のお父さんに助けてもらったんだ。君の名前はなんていうの?」

「センナ」

「センナちゃんか。よろしくね」

「うん」

一階に下りると、居間の食卓には山城さん、マキエさん、センナちゃんの他に、山城さんの母親のユキさんも座っていた。

羽柴さんが改めて一宿一飯のお礼をいうと、ユキさんは山城さんとよく似た仕草で「いいんですよ」と手を振った。


「困ったときはお互い様ですから」


食事中の話題はもっぱら羽柴さんのことに集中し、その中でマキエさんが羽柴さんの仕事について質問した。


「羽柴さん、お仕事は何をしてらっしゃるんですか?」

「しがない物書きです」

「物書き?小説家さんなんですか?」

「たまに雑誌に投稿した文章が載るくらいです。大したものじゃありません」

「それでもすごいですよ。どんなお話を書いてらっしゃるんです?」


「不思議な話とか、少し怖い話を」

「怪談とか?」

「ええ。最近は人魚をテーマに物語を書こうと思っていて、今回もその取材のための出張だったんです」

「……人魚」


ええ、と返事をしながら、羽柴さんは「あれ?」と思った。

その場の空気が少し変わったような気がしたのだ。

マキエさんは山城さんの方を見ている。その表情になぜかやや怯えのような影が見えた気がした。


「人魚の話ならうちにもありますよ。なあ、母さん」

「難堤さんね」


山城さんがそう言うと、ユキさんはこくりと頷いた。


その言葉に羽柴さんは驚いた。もう先ほどの微妙な空気のことは頭から飛んでしまっている。


「ナンテイさん……?この村にも人魚伝説があるんですか?」

「難しい堤、と書いて『難堤』です。そういう名前の神社が近くにあるんです。あ、というか、昨日羽柴さんが車を停めてたのがそうですよ」

「あ、あの神社がそうなんですね」

「そうそう。それに人魚の銅像もありますよ。後で行ってみますか?」

「銅像?」


まさかそんなものまであるとは思ってもみなかった。

俄然興味の湧いた羽柴さんがぜひ案内してくださいと頼むと、山城さんは快く了承してくれた。

すると、向かいの席で小さな手があがった。

「私も行く!」

「お、センナも来るか。それじゃあ三人で行きましょうか」

「行くー!」


羽柴さんに向かって笑顔を向けながら、センナちゃんは嬉しそうに叫んだ。


もう羽柴さんの存在に慣れたらしい。どうやら本来は人懐っこい子のようだ。

羽柴さんもにっこりと笑ってそれに応えた。

鬱蒼と茂る森の中を神社まで歩いていく。

きゃっきゃっと騒ぎながらセンナちゃんが先頭を行き、羽柴さんと山城さんがそれに続く。

センナちゃんは事あるごとに立ち止まっては木の実を拾ったり、ちょうどいい長さの枝を拾ったりして楽しそうに遊んでいる。

この子は見ているだけで幸せな気分になるな、と羽柴さんは思った。


「可愛いお子さんですね」

「ありがとうございます」


山城さんは少し気恥ずかしそうに、しかし幾分か誇らしげな表情でそう言った。


「この村には子供がとても少ないんですよ」

「そうなんですか?」

「ええ、最近の若い子は村を出て外で子供を作ってしまいますから。……センナには同年代の友達が一人もいなくて、大人しか遊び相手を知らないんです。昔はもっと子供がいたんですが……」

「そうだったんですか……」


同年代の遊び相手がいないというのは何ともかわいそうな話である。

この村の豊かな自然と、大人たちがセンナちゃんの主な遊び相手なのだ。


「そうなんです。村のみんなはそれを理解してくれているので、センナにはとても良くしてくれます」

「皆さんに愛されてるんですね」

「ありがたい話です。もしよかったら羽柴さんも遊んでやってください」

「もちろんですよ。自分なんかでよければ」


センナちゃんは地面にうずくまって、さっき拾った木の枝で砂の上に絵を描いている。

羽柴さんが横からひょいと覗き込むと、そこには人間とカニを合体させたような奇妙な生物のイラストが描かれていた。


「センナちゃん、それは何?」

「これはね、カニじん」

「カニジン?なにそれ?」

「カニじんはね、小さくてね、いっぱいいるの。センナと遊んでくれるんだよ。おじちゃんも遊ぶ?」

「たまに出てくるんですよ、そのカニ人間。センナの友達みたいで。なかなか面白いでしょう」

「ええ、興味深いですね」

「カニにんげんじゃないよ、パパ!カニじん、カニじんだよ!そう言ってたもん」

「ごめんごめん、カニ人だね。……ん?でも言ってたって、誰が?」

「カニじんが」

「え、カニ人が?ほんとに?」

「……パパ、信じてないでしょ」

どうやらセンナちゃんの中ではカニ人とやらは実在することになっているらしい。

頬をふくらませてぷりぷりと怒る娘にひたすら謝る父親の様子が可笑しくて、思わず羽柴さんの口元が緩んだ。

山城さんがあとでお菓子を買ってあげるという約束でセンナちゃんの機嫌はひとまず直った。


難堤神社に到着すると、たしかに山城さんの言った通り参道の途中に銅像が置いてあった。

しかしそれは一般的な「人魚」のイメージとはひどくかけ離れたものだった。

その身体は鯰のように長く丸みを帯びていて、小さな四つ足があり、ヒレのようなしっぽが生えている。その前端からは人間の女の上半身のようなものが生えていて、人魚というよりはまるで半人半馬のケンタウロスのようだと羽柴さんは思った。


「これがそうですか」

「ええ、変わってるでしょう?」

「非常に興味深いです。こんな形のものは初めて見ました」

「村に来た人は皆そういいますね。私もここ以外にこういう姿の人魚がいるというのは聞いたことがありません」

「中国の人魚にはこういう姿をしたものも伝わっているんですよ。四つ足で、鳴き声は小さい子供のようで、大きさは二メートルぐらいのやつが」

「へえ、そうなんですか。ということはうちのも中国からやって来たのかな?」

「正確な所は専門家に聞いてみないと分からないかもしれませんが、実はそうかもしれないですね」

「人魚にも色んな奴がいるんだなぁ」

山城さんは感心したように言った。

羽柴さんが銅像の細部までよく見ようとして身を屈めると、すぐ傍でセンナちゃんが「人魚ちゃん!」と叫んだ。

それを見た山城さんが吹き出しそうな様子で尋ねる。


「今度はなんだい?」

「人魚ちゃん、カニじんのてきなんだって」

「敵?それもカニ人に聞いたのかい?」

「そう。とってもこわいんだって。つかまったら食べられちゃうの」

「それはたしかに怖いな」


山城さんと羽柴さんは顔を見合わせて笑った。

センナちゃんも嬉しそうに、人魚ちゃん!人魚ちゃん!と叫んでいる。


それからしばらく神社の敷地内を散策し、日が暮れる前に三人は山城さんの家へ帰った。

「長くお邪魔してしまって申し訳ありません。明日にはお暇させていただこうと思います」


その日の夜、羽柴さんがそう言うと、山城家の人々は全員が名残惜しそうな顔をした。


「もう行かれるんですか。もっとゆっくりして下さっても構いませんのに」


奥さんのマキエさんがそう言うと、山城さんの母のユキさんもうんうんと頷いた。

しかし羽柴さんは首を横に振った。


「元々予定がありましたので……しかしこのお礼は必ずします。後日になってしまうとは思いますが、必ず」

「そんな、気にしなくていいんですよ。私たちはただやるべきことをやっただけですから」


山城さんの言葉を受けて、羽柴さんの胸に熱いものがこみ上げてくる。


「山城さん……本当にありがとうございます……なんとお礼を言ったらいいか……」

「いえいえ、羽柴さんはセンナにも良くしてくれましたし、もう私たちの家族みたいなものですよ。なあセンナ?」

「……おじちゃん、本当に行っちゃうの?」


センナちゃんは羽柴さんのズボンを掴みながら悲しそうな目つきでそう尋ねてきた。

思わず「行かないよ」と言いたくなる気持ちをぐっとこらえる。

「ごめんね、センナちゃん。僕は大事なお仕事があるから、どうしても行かなくちゃいけないんだ」

「……また来てくれる?」

「もちろん、またすぐに遊びに来るよ。だからセンナちゃんも待っててくれるかな?」


羽柴さんがそう言うと、センナちゃんの顔がぱっと明るくなった。


「うん、約束!」

「よし、じゃあ指切りしようか」


羽柴さんとセンナちゃんはお互いの右手の小指を絡め、しっかりと握りあった。

荷造りを済ませ、布団に入った後。

その日の羽柴さんはなかなか眠りに就くことができなかった。


気のせいだとは思うが、窓の外に何かがいるような気配がするのだ。

ガサゴソと何かが動き回るような物音がしたかと思うと、壁をコツ……コツと叩くような音もする。


雨の音ではない。

たしかに外はまた雨が降り出しているが、その音とは明らかに違う。

野生のイノシシでもうろついているのだろうか。

電気を消した部屋でとりあえず布団に寝転がりながら、羽柴さんはそんな事を考えた。


と、不意に今度は家の中から物音が聞こえてきた。

「ギシッ……ギシッ……。

誰かが階段を上って、羽柴さんのいる部屋に近づいてくる。

その人物はなぜか極力足音を立てないように、忍び足で慎重に移動しているように思えた。


心臓が停止しそうなほどの恐怖を感じているのに、逆にそれ故に足が凍り付いたように動かない。

……ははあ、なるほど。

ふとある考えに思い至り、羽柴さんは思わずニヤリとした。

この足音の主は十中八九センナちゃんだろう。


おそらく、帰る前に自分に最後の悪戯を仕掛けようと思ってこっそり部屋まで近づいてきたに違いない。

あの年頃の子供が考えそうなことである。

ここは彼女の思惑に乗るふりをして、タイミングを合わせて逆におどかし返してやろうと羽柴さんは考えた。


急いで目元まで布団をかぶり、センナちゃんが部屋に入ってくるのを待ち構える。

ギィッ……という軋んだ音を立てて扉が開いた時、羽柴さんはあやうく笑い声を漏らしそうになった。


しかし。


何かがおかしい。

部屋に入ってきた人物の影がやけに大きいのである。

これは子供の身長ではない。

ドアの近くにいるのは確実に大人の、成人した人間のシルエットである。


予想していなかった展開に羽柴さんは困惑した。

センナちゃんじゃないなら、じゃあ一体誰が?

誰が夜更けに足音を殺して自分のいる部屋に入ってくるのか?

山城さん?マキエさん?それともユキさんか?

しかし何のために?

やがて人影は羽柴さんの枕元までやって来た。

真っ暗闇で顔は見えないが、シュウ、シュウ、と落ち着きなく呼吸をしているのが聞こえる。

そして、その人物は両手で何かを握っているようだ。


その「何か」を人影が勢いよく振り上げた瞬間、稲光が室内を明るく照らした。

そこに立っていたのは、両手で大きな包丁を握りしめ、今まさにその先端を羽柴さんに振り下ろそうとしている山城ユキさんの姿だった。

その形相はまるで鬼のように醜く歪んでいる。


羽柴さんは思わず絶叫してユキさんの身体を蹴り飛ばした。

枯れ枝のような身体がその勢いで転倒する。

苦悶の声を上げる彼女を放置し、羽柴さんは誰かに助けを求めようと部屋を出て階段を駆け下りようとした。


しかしあまりにも家の中が暗すぎて、階段がどこにあるのか分からない。

手探りで電気のスイッチを探していると、羽柴さんの身体に誰かが勢いよくしがみついてきた。


とてつもない恐怖に、羽柴さんは軽いパニック状態に陥った。

反射的にしがみついてきた腕を引きはがそうとするが、相手の力が物凄く、逆に元いた部屋の方へと引っ張られそうになる。

手で触った感触は女性のものではない。

筋肉質で筋張ったこれは、まぎれもなく男性の身体だ。

「うわっ……うわあっ!」


バランスを崩した羽柴さんは、自らにしがみついた人間と一緒に勢いよく階段を転がり落ちた。

全身を襲う鈍い痛みにうめく。

そして、自分の身体の下敷きになって伸びているその男の顔を見て、羽柴さんは全身からサーっと血の気が引くのを感じた。

そこにいたのは山城さんだった。

「え……?なんで……?何が……え……?」


自分の身に何が起こっているのか全くわからず、しばらく山城さんを見下ろしたまま呆然としていた羽柴さんだったが、玄関の向こうに複数の明かりがあるのを見て俄かに正気に戻った。

家の前にはかなりの人数がいるようで、ざわざわと何事か話し合っているような声も聞こえる。


家の前に誰かいる。よかった。あの人たちに助けを求めよう。

これは何かの間違いに違いない。


羽柴さんは気が動転するあまり、冷静な判断能力を失っていたと思われる。

こんな夜遅くになぜ山城家の前に人だかりができているのか。

その事に思い至ることができなかったのだ。


「誰か!誰か、助けてください!襲われて……」


大声で助けを呼びながら玄関までたどり着いた時、先ほどまでざわついていた声がぴたっと止んだ。

「……おい、おかしいぞ」

「まだ動いてるじゃないか、どうなってる?」

違う。

羽柴さんは直感した。


これは違う。

この人たちは自分を助けてくれない。

逆だ。

彼らは自分のことを殺そうとしている。

だから家の前でその行く末を見守っていたのだ。


「山城さんがしくじったぞ!入れ!行け!」

「……くそっ!」


羽柴さんは着のみ着のままで家の裏口から外へと逃げ出した。

靴を履く余裕はなかったので、裸足のままでアスファルトの上を駆けていく。

背後からは大勢の人間の怒号と足音が聞こえてきて、彼らの持っている懐中電灯の明かりが、村の隅々まで照らして逃げ出した羽柴さんを見つけようとしていた。


「いたか!?」

「いや、こっちにはいない」

「村の出入り口はすべて固めろ!どこかで野垂れ死ぬ前に見つけるんだ!」

「わかった。くそっ、山城の奴がしくじらなければ、こんな事には……」

「言うな。とにかく見つけ出すんだ!そうしないとあの子が……」

ざあざあと降りつける雨をまともに浴び、あっという間に全身の体温が奪われていく。

裸足で走っているので足の裏はすでに血まみれだ。

また道は真っ暗で何も見えないので、途中で何度も地面に転んだ。

一度などはそれで歯が一本折れてしまい、激痛とともに口の中が血の味でいっぱいになった。

しかしそれでもうめき声を上げることすらできなかった。

声を上げれば、追ってきている村人たちにすぐに見つかってしまう。


「ハァ……ハァ……」


土地勘のない村の中をあてどなく走り続け、とにかく誰にも見つからないように息を殺しながら逃げていたら、いつの間にか羽柴さんは深い森の中に彷徨いこんでいた。

木の幹にぶつかり、出っ張った根に足を取られ、泥にまみれる。

尖った岩で肌を切り、雨で体温を奪われながらも羽柴さんは必死に走っていた。


……どうして自分がこんな目に。

何度も何度もそのことを考えた。

しかし、まるで理由が分からなかった。


あんなに優しかった山城家の皆が、どうして自分を殺そうとしたのか。

会ったことも話したこともない恩仁村の人々が、なぜ自分を追いかけてきているのか。

どれだけ考えても結論は出なかった。

今はただ、一刻も早くこの村を出なければと、その思いだけで羽柴さんは闇の中を進み続けていた。

やがて、羽柴さんは少し開けた場所に出た。

無論、彼にはほとんど何も見えていないが、実はここは村境のすぐ近くである。

必死の思いで逃げ続けた結果、羽柴さんは偶然にも誰の目にも触れることなく、村の境界までたどり着いていたのである。

実はそこにたどり着けるかどうかが非常に重要な意味を持っているのだが、この時の羽柴さんにはそんなことは知る由もなかった。


痛む足を引きずりながら、ひたすらに歩き続ける羽柴さん。

突然、その背中が何か硬いもので殴りつけられた。

「がっ……!」


苦痛のうめきをあげて地面に倒れ込む。

その後ろに立っていたのは、階段の下で気絶していたはずの山城さんだった。


「頼むよ、羽柴さん」


頭には工事現場で使うようなヘッドライト付きのヘルメットをかぶり、手には先ほど羽柴さんを殴ったばかりの金属バットを持っている。

それを両手で大上段に振り上げながら、山城さんは呟くように言った。

「今年はあの子が選ばれたんだ。……センナの、娘のためなら俺はなんだってやる。

あの子を連れては行かせない。そんなこと、たとえ神様にだってさせるもんか」


羽柴さんはまだ地面にうずくまっている。

その姿を見下ろしながら、山城さんは両手に力を込めてバットの柄を強く握りしめた。

殺してはいけない。あくまで死ぬ寸前まで痛めつけるだけだ。

殺すのは自分ではない。

殺すのは「神様」がやってくれるのだから。


神様は年に一度の生贄を村人の中から選ぶ

しかし、年が明けるまでに訪れた旅人を代わりの供物にすれば、村人から死者は出なくて済むのだ。

それがこの村のルール。この村の掟。


これまでもずっとそうやってきたのだ。

だからこそ村人同士の結束は固い。

自分たちのために、見知らぬ誰かを犠牲にし続けてきたのだから。

「だから本当に申し訳ない、羽柴さん。どうか娘のために死んでくれ」


渾身の力を込めてもう一発背中を殴りつけようとしたその時、うずくまっていた羽柴さんが急に後ろを振り返った。

そして、手に握りこんでいた大きな石を、山城さんの顔面めがけて力いっぱい投げつけた。


「ぐあっ……!」


投石はあやまたず顔面に命中した。

ガキッという嫌な音がして、山城さんの鼻の骨が折れる。

すかさず羽柴さんは全身でタックルをかけ、山城さんを地面に引きずり倒した。

そのままくるりと反転して逃げようとした羽柴さんだったが、いくらも行かないうちに後ろから金属バットを投げつけられ、それがちょうど走っていた足の間に絡まった。


「……っ!」


足の痛みで起き上がれない羽柴さんに近づき、先ほど投げたバットを拾い上げる。

羽柴さんはなんとか距離を離そうと後ずさりするが、山城さんはそんな羽柴さんを勝ち誇ったような顔で見下ろし、今度こそ確実にバットを振り下ろそうとした。


と、その時。


「……惜しいわ。逃げ切るなんて」


いつの間にか、二人の間に巨大な影が割って入っていた。

山城さんのヘッドライトに照らされたそれは、どう見ても人間の姿をしていなかった。

その身体は鯰のように長く丸みを帯びていて、小さな四つ足があり、ヒレのようなしっぽが生えている。その前端からは人間の女の上半身のようなものが生えていて、人魚というよりはまるで半人半馬のケンタウロスのようだと羽柴さんは思った。 そう、これはまるで―――。



「……人魚?」

そう、それはあの難堤神社で見た人魚の銅像にそっくりの姿だった。

自分の目が信じられず、羽柴さんはあんぐりと口を開けて目の前の不思議な生き物を見ていた。

山城さんもバットを振りかぶった姿勢のまま完全に硬直している。

しかし、彼の驚きの原因は、羽柴さんとはまた別の所にあるようだった。


「……逃げ切った?」

「そうよ。その人はもう村の外にいるもの。境界の外に出た人間を食べるわけにはいかないわ」


そういって、銅像そっくりな生物は羽柴さんの方を指差した。

山城さんがヘッドライトでその方向を照らすと、そこには奇妙な形に彫刻された大きな石のようなものが落ちている。

どうやらこれがこの村の境界を示すものらしい。


「そんな……」

「なかなか面白かったわ。見所のある人間ね。できれば彼氏にしたいところだけど、今は他の仕事があるのよね」


がっくりと項垂れる山城さんを無視し、人魚らしき生物は羽柴さんに向かってそう言うと、どこか別の場所へと歩き出そうとした。

それを見て山城さんが慌てて顔を上げる。

「……待ってくれ。どこへ行く気だ?」


その言葉に、人魚が振り返って言う。

その声は羽柴さんに向けられたものとは打って変わって、非常に冷たいものだ。

「この人間は逃げ切った。だから彼は殺さない。掟通りにお前の娘を食べるわ」

「そんな……駄目だ、絶対に駄目だ。そんなことはさせない。やめてくれ」

「……させない?」


その瞬間、空気が変わった。

目の前の生き物の全身から、異様な怒気が発散されているのが羽柴さんにもわかった。

その気迫に圧され、山城さんは心底怯えたような表情をした。

全身が恐怖にぶるぶると震えている。

そんな山城さんを見て、人魚らしき生き物はフンと鼻を鳴らした。

そのままスタスタと歩き出そうとする背中を見て、山城さんが必死の形相で叫んだ。


「やめろ、止まれ……止まってくれ!止まれと言っているのがわからないのか!?」


その声も無視して歩いていく異様な生き物。

ついに山城さんは叫び声をあげながらその生き物に殴りかかった。

金属バットが謎の生き物の身体を叩く直前、目にも止まらぬ速さで伸びてきた手がバットをがっしりと掴み取った。

そのまま謎の生き物は強靭な握力でバットをぐしゃりと握りつぶすと、呆気に取られている山城さんの頭を鷲掴みにし、その身体ごと近くの木に向かって勢いよく投げつけた。

びしゃっ、という音がして、山城さんの身体が半分に千切れ飛んだ。

目の前で突然起きた惨劇に呆然とする羽柴さんを置き去りにして、人魚はそのまま何事もなかったかのように立ち去ろうとしていた。


「ま、待ってください」


羽柴さんは思わずそう声をかけていた。

ん?といって人魚が立ち止まり、後ろを振り返る。


「何?どうしたの?」

「あなたは、あなたは本当に人魚なんですよね?」

「そうよ。大山椒魚の人魚だから、皆にはオオサンショウウオ人魚って呼ばれてるわね」

「……あなたは、これからどうするつもりなんですか?」

「さっき言った通りよ。あなたが逃げ切ったから、掟に従ってさっき死んだあいつの娘を食べるの」

「センナちゃんを……?」


羽柴さんは思わず身を震わせた。

あの子を……食べるだって?


「そう。山城センナをね。それがこの村の掟なのよ。色々と村の面倒を見てあげる代わりに、一年の最後に生贄を差し出すっていうね」

「そんな……なんとか殺さずにすむ方法はないのですか?」


羽柴さんがそう言うと、オオサンショウウオ人魚は眉間に皺を寄せて答えた。


「ないわね。そういうルールだもの。……というか、どうして貴方がそんなことを言うの?この村の人間は総がかりで貴方を生贄の代わりにしようとしていたのよ?恨みに思いこそすれ、助けようとする義理なんてないんじゃない?」


なるほど、自分はセンナちゃんの身代わりとして選ばれていたのか。

それなら確かに自分が彼女を助ける義理も必要もないように思える。

それは確かに人魚の言う通りなのだが、しかし羽柴さんには別の思いがあった。


「でも、あの子は……センナちゃんは何も知らないでしょう?」

「……まあ、それは確かにそうね。けど、あの子もいずれこの村の風習を知るようになるわ。そして、親や先祖と同じように、村人から犠牲を出す代わりに、見知らぬ旅人を差し出すようになる。この村はそうやって今まで滅びずにやって来たのよ」


罪悪感を共有することで村人同士の結束を強めていたのか。

恐ろしいシステムだ、と思いつつ、しかしそれでも羽柴さんは首を縦に振らなかった。

「それでも、それでも僕はあの子を死なせたくありません」

「……見かけによらず強情ね。なぜそこまで言うの?」

「理屈じゃありません。ただあの子に死んでほしくないからです」

「……」


オオサンショウウオ人魚は、しばらく考え込むようにじっと黙り込んでいた。

羽柴さんの意識が朦朧としてくる。

さっきまでは命のやり取りで極限状態にあったから意識が覚醒していたが、寝間着かつ裸足のまま冬の山の中を一時間以上も歩き続け、何度も転倒したり殴られたりした羽柴さんの心身は、とっくのとうに限界に達していた。

そんな様子を見て、オオサンショウウオ人魚はふっと笑う。


「……今にも倒れそうだっていうのに、心配してるのは自分を殺そうとした男の娘のことばかり。貴方、なかなかおかしいわね。おかしいけど……そういうのは正直嫌いじゃないわ」

「え……?」

「貴方の願いを叶えてあげると言ってるのよ。ほら、私って一応この村では神様扱いだし?追手から逃げ切った勇敢な人間へのご褒美として、あの娘の命だけは見逃してあげるわ」

「……本当ですか?」

「ええ、本当よ。約束は必ず守るわ」

「ありがとうございます……」


オオサンショウウオ人魚の言葉に、羽柴さんは心から安堵の溜息をついた。

しかし、彼女は次のように言葉を続けた。

「でも、一つだけ条件があるわ」

「条件?」


対価を求めるということだろうか?

しかし、今にも死にそうな自分にできる事があるとは思えない。

死んだ後の自分の死体を食べたいとか言い出すのだろうか?

しかし、オオサンショウウオ人魚の出した条件は、羽柴さんにとって完全に予想の斜め上を行くものだった。


「貴方、私と夫婦になりなさい」

「…………は?」


言われた意味が全く分からず、羽柴さんは思わず聞き返した。

その様子を見て、オオサンショウウオ人魚は不満そうな顔をした。


「聞こえなかったの?私と夫婦になりなさいって言ったのよ。それがあの娘を助ける条件」

「はあ……?」

「何その反応?嫌なの?」

「いえ、そういう訳じゃないんですが……」


真顔でそう聞かれると反応に困ってしまう。

「貴方は村の連中からたった一人で逃げ切った。運が強いし、とても生命力がある。私の姿を見ても何とも思ってないみたいだし、貴方とならきっと強い子が生まれそうな気がするの」

「子って……」


話が早すぎる、と羽柴さんは思った。

もう目を開けていられない。意識は今にも途切れてしまいそうだった。


「あ、そろそろヤバそうね。でも安心して、貴方は死なせないわ。巣に連れて行ってあげる。私の夫になる人間にこんなところで死なれちゃ困るからね……」


薄れゆく意識の中で、羽柴さんはオオサンショウウオ人魚の腕に優しく抱きかかえられたような気がした。

その後、○○県恩仁村付近の山にて、史上稀に見る規模の大土石流が発生した。

大量の土砂や水、流木は村の全家屋を飲み込み、必死の捜索にも関わらず、まだ一人の遺体も発見されていないという。


地元警察は、唯一生き残った六歳の少女を村内の神社境内で保護した。


この神社は奇跡的に土石流の被害を免れ、少女は拝殿内に意識を失った状態で横たわっていたのだという。


少女はすぐに病院に運ばれ、現在医師の治療を受けているが、幸いなことに命に別状はないとのことだ。

警察は少女の意識が戻り次第、詳しい事情を訊ねる予定だという。

羽柴さんはオオサンショウウオ人魚の夫となり、すでに彼女のお腹には第一子がいる。


「子作りしたらたくさん栄養を摂らなきゃね」


その栄養とは何を指しているのか、どこから摂るのか、土石流の日はどこに行っていたのか、またなぜ村人の死体が一つも見つかっていないのか……様々な疑問が脳裏を渦巻いていたが、羽柴さんはあえて何も聞かなかった。


なぜなら、人魚は彼との約束をちゃんと守ってくれたからだ。

羽柴さんにとってはそれだけで十分だった。

恩仁村は無くなり、センナちゃんとの指切りの約束を果たすことはできそうにないが、彼女の命を守ることはできたのだ。

それだけで、今の彼にとっては十分だった。

Novel's by urazuMa

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